序:燃える街と血の雨と

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 見渡す限り一面の紅だった。
 地面が燃えている。いや、地面に累々と転がった死体が炎に包まれて、そう見えているのだ。
「お母さん」
 その中に立ち尽くして母を呼ぶ。応えは返らない。
 ついさっきまで一緒にいた母。いつも通り手をつないで午後の買い物に出たのだ。しかし大通りにさしかかった途端、街で一番高い楼閣にある警鐘が鼓膜を破りそうな音量で響き渡った。直後、太陽が顔を隠して夜中のように暗くなり、崩壊が訪れたのである。
 激しい風に煽られて、植物も建物の屋根も人も一瞬で吹き飛んだ。そこに火の玉がいくつもいくつも降り注いで街を緋色の海へと変えた。
 炎に追い立てられ逃げ惑う人の波を走る間に、つないだ手は離れて独りきりになっていた。
「お母さん、お母さん!」
 必死に母を呼び、まろびそうになりながら駆ける。
 家に帰ろう。その考えが脳内に浮かんだ。そうだ、母も家に戻っているかもしれない。父も帰宅して二人で自分の帰りを待っているかもしれない。
 焦る気持ちは足をもつれされ、つんのめって派手に倒れ込んだ。衝撃でしばらく突っ伏したままだったが、膝小僧に走る痛みに目をやれば、盛大にすりむけて血がにじんでいた。
 ぐすぐす泣きながら両手をついて起き上がり、ぺろりと血をなめる。こんな傷、家に帰れば、母が消毒薬を塗って手当てしてくれるだろう。
『泣かないの。まったく、このあわてんぼうさん』
 そう苦笑して、自分と同じ若草色の瞳を優しく細めるだろう。
 脚を叱咤して立ち上がり、よろよろと家への道をたどる。だが、たどり着いた先に期待した光景は無かった。あったはずの家は崩れ去り、追い打ちとばかりの炎に包まれている。
 愕然と棒立ちになれば、今更思い出したように煙と熱が喉を刺激する。ひりひりした感覚に思い切りむせこんだ時、頭上にふっと影が差して、天空を見上げた。
 空飛ぶ山。そう見えたのは錯覚だった。闇よりなお黒い巨大な獣が、六対の翼を広げて悠然と空を舞っている。まるでそれがこの世界の支配者であるかのように。
 凝視したまま身がすくみあがる。がくがく笑う膝を抑える事ができない。目を逸らしたいのに、身体はまぶたを閉じろという指令を聞いてはくれない。
 雨が降り始めた。優しい小雨などではなく、ぼたぼたとこぼれ落ちる厳しさを持った雨だ。そのあまりにもねっとりした感触にぞわりと身震いして、のろのろ手を伸ばし、正体を確かめる。
 掌にべっとりとついた赤が、炎に照らされてより紅く照らし出された。
 血。血だ。血の雨が降っている。
 何故、の考えがぐるぐる脳内を巡る。真実を知るのが恐い。だが身体は反抗的にも再び空を仰いだ。
 黒い巨体を上へとたどる。生物として頭部があるべき場所を見つめた時、瞳はあらざるべき光景を映し出して見開かれた。
 ぞろりと牙の生えた口が、何かをくわえている。その「何か」が見覚えのある誰かだと認識した途端、怖気は吐き気となって腹の底からせり上がって来た。
 丸くうずくまって胃の中の物を吐き出す。焼けた喉がきしみ、言葉にならない声が悲鳴となってほとばしる。
 悪夢なら目覚めて欲しい。そう願っても血の雨は降り続ける。それは永遠に止む事が無いように思われた。

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