3:与えられた名前(1)

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 初めてその力に気づいたのは何歳の時だっただろうか。
 外で遊んでいたら転んで、膝を盛大にすりむき、すんすん泣きながら傷口の血をなめた。そして『治ったらいいのに』と呟いた途端、虹色の蝶が一羽、ふわっと目の前を横切った。蝶はくるくる優雅に羽ばたくと、白く光りつつ傷口へ降り立って四散する。すると、血のにじんだ傷は綺麗に消え去ったのだ。
 赤い痕すら残らなかった膝をぼんやりと見つめていると、ぽんと頭を撫でられる感覚がしたので顔を上げる。逆光で顔は見えない。だがその人物は優しくこちらに告げたのだ。
『それはアルテアだね。現代では失われた技だ』
 アルテア。耳慣れぬ単語に首を傾げると、相手は血のように赤い石がついた首飾りをこちらの眼前に差し出した。
『もう一度やってごらん。唇にこの石をつけて』
 差し出された石がやけに鈍く光って見える。この石を受け取ってはいけない。頭の奥で何かが警鐘を発していたが、身体は吸い込まれるように手を伸ばし、首飾りを受け取っていた。
 言われたままに石に口づけると、ぼんやりと赤が唇に移る。
『言ってごらん。「炎」と』
『……ほのお』
 その宣誓は呟きに近かったが、言い終えると同時、再び虹色の蝶が現れた。今度は真っ赤な輝きと化し群れをなして舞い上がる。蝶は次々火の塊となると周囲に降り立つ。直後、視界が血よりなお鮮やかな紅に彩られた。
 燃える。全てが燃える。
『消さなくちゃ』
 ここを燃やしてはいけない。それだけはわかっていた。だが、頬を刺す熱ばかりが明瞭で、頭の中は混乱して次の言葉を生み出せない。
『いいんだよ。消さなくていい』
 がくがく震える身体を、ひんやりした両手がやけに優しく包み込む。
『こんな悲しい場所は、無くしてしまっていいんだ』
 耳元で囁かれる声は酷く甘やかで、こちらの意識を暗い闇の淵へと差し招く。赤が薄れて色を失ってゆく。最早思考することを放棄した身は、ただ素直にうなずくばかりだった。

 雪道をざくざく踏みしめる音と、息遣いだけが静寂の中に響き渡る。銀世界に刻まれる足跡は五人分。大きさも歩幅もばらばらのその足跡は、迷う事無く南へ向かっていた。
「さーむーいー。寒い寒い寒い!」
 ふわふわのコートを着込んでいながら文句を垂れるのはシャンメルだ。
「何でわざわざこんなへんぴな道を行くわけー? 寒いししんどいし疲れるし」
「じゃあせめて、温かくなる薬草茶ハーブティーをあげようか」
「リリムのお茶は何入ってるかわかんなくて危ないからいい」
 リリムがわずかに頬を赤くしてぼそりと洩らしたが、シャンメルは真顔で拒んで早足になる。
「……あったかいのに」
 少女は明らかに落胆してコートのフードを深々とかぶり直すと、とぼとぼ後に続いた。
「エン・レイさん、大丈夫ですか」
「はい、ありがとうございます」
 ソキウスに声をかけられ、エン・レイは笑顔を返す。しかしその笑みはやや硬い。慣れない靴で雪に足を取られて四苦八苦している。アルテアを正確に発声し息切れしないよう、常日頃からそれなりの運動はして心肺は鍛えている。しかし外へ出る際はいつも馬車を使っていたため、長時間の歩行に足がついて来ないのだった。
 周りに気づかれない程度に白い息を吐き出す。それとほぼ同時、先頭をすたすた行っていたインシオンが急に足を止め振り返った。
「おい」
 驚きで頬がぴきりと痛くなる。溜息が聞こえていたはずは無いのだが。
 しかしインシオンはエン・レイの狼狽えなど気づかない様子で一方向を指し示す。
「しばらく休憩だ」
 示された方向を向くと、雪融け水が流れる小川が見えた。
「やーりい、休憩休憩!」
「お茶を淹れるわ」
「毒無しでお願いしますよ、リリム」
 シャンメル達が軽口を叩き合いながら小川近くの岩場へめいめいに腰を下ろす。エン・レイはきょろきょろしながら、彼らから少し離れた場所へ雪を払って座った。
 ふくらはぎがつりかけているのを感じる。足先がじくじく痛むのは、靴ずれもしているだろう。だがこれしきでアルテアを使って回復させていたら、インシオンにどんな辛辣な言葉をかけられるかわかったものではない。
 嘆息するエン・レイの頭上にかげりがさす。見上げると、そのインシオンが目の前に立ってこちらを見下ろしていた。
「靴を脱げ」
 ぶっきらぼうに言われる。目的をはかりかねて目をぱちくりさせると、彼は眉間に皺を寄せて「靴脱げって言ってるだろ」と身を屈めてエン・レイの足に手をかけた。
 反射的にびくりと膝が伸びる。ごつ、と鈍い音と共にインシオンの顔面に鮮やかな蹴りが入った。エン・レイはさーっと青ざめ、シャンメルが「ぶっはは!」と吹き出して、リリムが呆れた様子で見ている。ソキウスは背を向け肩を震わせていた。
「お……っ前」赤くなった鼻をさすりながらインシオンのつり目がぎんと睨みつけてくる。「喧嘩売ってんのか」
「違います! ごめんなさい!」
 慌てて何度も頭を下げると、インシオンはまだ何かぶつぶつ言いながらもエン・レイの靴を脱がせた。血に染まった靴下まで引き下ろすと、皮のむけた真っ赤な足があらわになる。
「あー、酷いねえ」
 近寄って来たシャンメルが足をのぞき込みながら、ちっとも同情のこもっていない声色でくすくす笑う。
「セァクではブーツはありませんからね。慣れない靴に足が馴染まないのも当然ですよ」
 ようやく笑いのおさまったソキウスが擁護してくれる間にも、インシオンは清潔な布でエン・レイの足の血を拭い、傷口に少ししみる軟膏を塗り、まっさらな包帯を取り出してぐるぐると巻いてゆく。非常に手慣れた動作だ。エン・レイの足はあっという間に綺麗な巻き方の包帯に包まれた。
「履いてみろ」
 こちらも血を拭ったブーツを差し出されたので、替えの靴下をつけた上から再度履いてみる。包帯の分隙間が無くなって、足はぴったりと靴に収まり、動かしても痛みを感じなくなった。
「それで歩けるだろう」
 そっけなく言い置いてインシオンが腰を上げる。
「――あの!」
 エン・レイは思わず三つ編みをつかんでいた。いきなり後ろ髪を引っ張られて体勢を崩したインシオンが、かくんと膝を折る。
「……お前、本当に喧嘩ふっかけてんのか」
「ちち違います!」
 怒気を孕んだ瞳が睨みつけてくるので、ぱっと手を離してぶるぶる頭を横に振り、それからその頭を勢いよく下げた。
「あの、ありがとうございました」
 しばらく待っても返事が無いので、おそるおそる顔を上げる。インシオンはむずがゆいのを必死にこらえているような表情でこちらを見ていた。何か変な事を言ってしまっただろうか。不安になると。
「髪」
 また実に短い台詞を投げかけられて、意味をわかりかねる。
「髪邪魔だ、お前」
 咄嗟に自分の髪に手をやる。そういえばまとめもせずにそのまま流しっぱなしだった。
 たしかに長い髪は風に吹き上げられでもしたら、動きの妨げになるだろう。しかしお気に入りの髪紐を失くしてしまって困っているのも事実だ。返す言葉に困っていると、眼前にずいと赤い組紐が突き出された。
「俺の予備だ、使え」
 仏頂面のままのインシオンの手から組紐を受け取る。彼の瞳のような真紅をした組紐で手早く髪を結べば、エン・レイの髪にインシオンの色が宿った。
「ありがとうございます、本当に」
 再度頭を下げると、
「阿呆か、お前は」
 呆れた様子の声が返って来た。
「足手まといになるのも困るから面倒見てやっただけだ。勘違いするな」
 足手まとい。その言葉が心に刺さる。
 今のエン・レイの身はインシオン遊撃隊の客分だ。しかもいつどこで敵襲を受けるかわからない危険に彼らをさらしている。
 婚礼の一団はつつがなくイシャナ王都に着くと思っていた。だが実際には、エン・レイの知らない場所で様々な人間の思惑が絡み合って、こうして困難な道を作り出している。
(私は、知らない事が多すぎる)
 きっとセァクの人々が意図的に自分に見えないように隠していた事情がもっとあるのだろう。それに気づいた今、以前のようにかつがれるままアルテアを行使するだけの巫女ではいられない。セァクとイシャナの平穏を保つ為にこそ、この力を用いるべきだ。その為にも今は、この人達と共にイシャナ王都へ行くべきだ、という考えが脳裏に火を灯す。
 足はもう痛くない。足にぴったりと靴が沿うように、決意はエン・レイの心にしっかりと根を張っていた。
 凛とした表情で再度顔を上げた時。
「――来る」
 リリムが険しく目を細めて一方向を見やっているのに気づいた。

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