5:不信と信頼と(4)

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 また炎の中にいた。周囲をぐるりと見回してみても、一面の赤。叫びたいのに喉はひきつれ、声が出て来ない。  涙しながらその場にうずくまった時、ふっと頭上に影がさした。
 のろのろ顔を上げると、そこに立っていたのは人間ではなかった。黒い肉体、尖った耳。髪の代わりにはえたたてがみとそこからのぞく角。背には蝙蝠のような翼。
 異形の生物を前に、しかし悲鳴は出なかった。恐怖も感じなかった。
 異形がこちらを見下ろしている。赤い眼球に言いようの無い哀しみが宿っているように見えたのは、思い込みだろうか。
『……泣いてるの?』
 立ち上がり、必死に背伸びをして異形に手を伸ばす。触れた頬はかさかさしていたが、伝い落ちる水一筋が、炎の熱の中ひどく冷たく感じられた。
『泣かないの』
 よく母が自分をなだめてくれたように呟く。それと同時、伸ばした手にぽわりと光が灯って虹色の蝶が生まれた。蝶は輝きながらふわふわと周囲を漂った後、白い尾を引いて異形に吸い込まれる。
 周囲の熱も身体の痛みも、全てが遠ざかってゆく。あらゆる感覚が消失する前に、もう一度だけ声に出した。
『泣かないの』

「泣いているのはあなたでしょう」
 無いはずの返事が返って来た事にびっくりして、意識は急速に明瞭になった。宙に向けて伸ばした手は空気をつかむ。
 夢か。
 エレが息をついてゆっくりと手を下ろすと、呆れ顔のリリムがこちらを見下ろしているのが視界に入った。頬がやけに冷たい。拳で拭えば水分が手の甲についた。
 ここはどこか。問う前にリリムが先んじて答えた。
「次の街へ移動したわ。ユニアスからは離れたかったから」
 言われて思い出す。確かに、あれだけの恐怖を与え合った人々の間に居座り続ける事は、双方にとって危険だ。あのセァクの詩人は無事に逃げられただろうか。
「起きられるなら飲みなさい」
 リリムが湯気の立つカップを差し出した。身を起こそうとすると節々が痛んで悲鳴をあげる。ようよう起き上がるエレに向け、リリムが嘆息した。
「そりゃそうよ。高熱を出して三日も寝込んでいたんだから」
 三日もか。驚きながらリリムからカップを受け取り、口をつける。まず薬草のぴり辛さが舌を突き、飲み下せば清涼感が喉を滑り落ちていった。
「ごちそうさまです」
 笑顔でカップを差し出すと、リリムは心中複雑そうな表情でこちらを見ていた。
「……疑わないの?」
 質問の意図がすぐにはわからず首を傾げると、少女はぽつりとこぼす。
「あたしがあなたを殺そうとしているとか」
 エレはどきりと身をすくませた。インシオンを陥れようとする犯人と疑った事を見抜かれていたのか。しかし今、その疑念は消し飛んでいる。何故なら。
「もし本当にあなたが私の命を狙っているなら、前にお茶を出した時に毒を入れていたはずですし、何より、こうして看病をしてくれなかったでしょう」
 それに今なら思い出せる。エレが馬車から突き落とされた時、彼女はエレの名を呼んで心配してくれた。あれが演技だったとは思えない。
 微笑みかけると、リリムがあっけに取られて口を開き、それから「そう」と視線を落とす。
「そんなあなただから、インシオンもあなたを頼ったのね」
「頼る?」
 そんなそぶりは今まで微塵も見えなかったのだが。エレがきょとんとすると、リリムはこちらを一瞥して語を継いだ。
「見たんでしょう、あの人の姿。あれがあの人が『死神』と呼ばれる本当の理由」
 言われて思い出す。まるで化け物――そう、破獣カイダのようにエレに迫って来たインシオンの姿を。
「十三年前、あの人はアイドゥールに出現した破神タドミールを倒した。その時全身に破神の血を浴びて、破獣になる呪いを受けたのよ」
 破神。
 それは千年の昔を遡る時代の存在として語られている、滅亡の使者の名前。六対の翼持つ黒い巨躯で空を覆い、炎の雨を降らせて大陸の多くの人間を死に追いやったが、不意に姿を消したとされている。
 一面の焼け野原になったフェルムの大地に、セイ・ギと名乗る褐色の肌に尖った耳を持つ人間が現れて、絶望に包まれた人々を救い、彼は国を興して初代皇帝となった。それがセァク帝国の始まりだと、伝承には残っている。
 しかしそれは、よくある英雄の神格化の為の物語で、破神は空想上の生き物だと思われていた。
「何故、破神が」
「あたしもよくは知らない。アイドゥールでイシャナとセァクの王が交渉にあたった時、突然破神が現れて街を焼き尽くした。その時イシャナ軍にいたあの人が破神を倒した」
 でも、と瞑目してリリムは続ける。
「被害は街全体に及んだ。地上に降り注いだ破神の血を浴びた人間は、『神の力』を得るか、耐えられなければ破獣になって狂っていった」
 ちり、と頭の奥が痛んだ。脳裏に、一面炎に包まれた街が浮かぶ。知らないはずの記憶が現れた事にエレは戸惑った。
「あたしやシャンメルもアイドゥールにいた。あたしが得たのは『神の目』。一定の範囲なら破神の血を浴びた人間や破獣を感知する事ができる。シャンメルは『神の足』。人の限界を超えて走る事ができる」
 紫の瞳がまぶたの下から現れ、じっとエレを見つめた。
「そしてエレ、あなたもきっとアイドゥールの出身。力は恐らく『神の口』。あなたがアルテアを使えるのはそれがあっての事」
「待ってください」
 混乱し始めた頭を抱える。エレに破神の血を浴びた記憶など無い。セァク前王に拾われた時からしか思い出が無いのだから。しかし。
「それがおかしいのよね」
 リリムが眉間に皺を寄せてエレの弁明に疑問を呈した。
「セァクの前王は十三年前にアイドゥールで死んでいる。その直後に赤ん坊のヒョウ・カ皇王が即位した。前王があなたを十年前に拾えるはずが無いのよ」
 ぴしり、と記憶の薄氷にひびが入ったようであった。織物の糸がほころび始める。撫でてくれた手、抱き上げる腕。あれが前王でないとしたら、本当は誰だったのだろうか。
「いずれにせよ」
 リリムの言葉にはっと我に返る。思考の回廊を抜け出したおかげか、頭の奥のうずきも次第に減じていった。
「あの人はあたし達を選んだ。いつか自分が破獣として決定的に狂った時、確実に殺してくれる相手として」
 殺す。その言葉が酷く重い鉛として胃のあたりに落ち込んだようだ。『死神』と呼ばれるあの人は、自らの死神を求めて生きていたというのか。うつむいてぐっと拳を握り込む。
「あたしもシャンメルも、やるしかないと思ってる」
 かすれる声に顔を上げれば、リリムは背を向け肩を小刻みに震わせていた。
「インシオンは、育ててくれた祖父が死んで売り飛ばされそうだったあたしを救ってくれた。だから」
 少女が宙を仰ぐ。涙声が、何故上を向いているのかを教えてくれる。
「あの人が苦しむならそれを断ち切る為に、あたしは存在する。あの人を最期まで見届ける」
 両手で顔を覆い、声を殺してリリムが泣く。こんな小さな少女が覚悟を決めているのだ。自分も決意しなくてどうするのか。エレは両腕を伸ばし、後ろから少女の肩をそっと抱きしめた。腕の中で小柄な身体がびくりと震える気配がする。
「な、何よ。別にあなたに慰めてもらいたいなんて、思って、な……」
 精一杯の反発は中途に途切れ、嗚咽に変わる。エレはリリムを抱く腕に一層の力を込めながら、確信した。
 この子は犯人ではない。信じよう。

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