8:憎しみを断ち切るアルテア(3)

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 ぽたり、ぽたり、と血が床に滴り落ちる。インシオンをかばうようにソキウスの前に立ち塞がって腹に剣を受けているのは、ヒョウ・カだった。
「ソティ、ラス」
 少年皇王は痛みに顔を歪めながら、血塗れの手を、己の腹心と思っていた男に向けて差し伸べる。
「僕の血で君の怒りが終わるというのなら、僕は素直に差し出そう。だからもうこれ以上、姉上や皆を」
 それ以上を言葉にできずにヒョウ・カの身体ががくりと崩れ落ちる。ソキウスの頬にべったりと血の跡を残して。
 ソキウスはしばらくの間、ぼうっと立ち尽くしていたのだが、のろのろと頬の血を拭って、赤く塗れた手を見つめる。
 初めは小さく。次第次第に大きく。ソキウスは身をくの字に折って笑声をあげた。そして、ぺろりとセァク皇王の血をなめ、嚥下する。
 変化はその直後に起きた。
「ぐっ……ぐおおおお!?」
 ソキウスが胸をかきむしるようにもがき苦しみ出したかと思うと、ごきぽきと骨が変形する嫌な音が聞こえた。四肢が伸び、肌が真っ黒な硬質の皮膚に覆われて、人の姿は失われ、黒い影が人間の数十倍にも膨れ上がる。
 そして、人々は見た。
 式場舞台を覆う程に巨大化した、黒の破神タドミールの姿を。
 破神は耳とおぼしき位置まで裂けた口を開き、ぞろりと生えた鋭い牙の奥から、腹の底まで震わせる咆哮を響かせると、蝙蝠のような翼六対を広げて、その巨体を浮かび上がらせた。
 東へ向けて。
 東には何があるか。考えた誰もが青ざめる。イシャナ王都イナトだ。ソキウスはインシオンの全てを奪うと言った。それならばまずは彼の故郷を壊滅せしめるだろう。
 アイドゥールから現れた破神がイシャナに破壊をもたらせば、十三年前の悲劇の再来だ。両国の友好どころの話ではない。責任をなすりつけあって休戦は破談になり、泥沼の戦が再び訪れる。いや、それどころではない。破神が全てを燃やし尽くして大陸を壊滅に追いやってしまうに違いない。
 いや、今はそれよりも。エレは血の気の引いた顔で弟の元へ駆け寄っていた。
「ヒョウ・カ!」
 ヒョウ・カの腹からの出血は激しくなっていた。褐色の肌でもわかるほどに顔は青白くなり息が浅い。
 弟がいなくなってしまう。たとえ偽の記憶で家族になったとしても、ヒョウ・カと過ごした十年は本物だ。彼が唯一人の弟だ。
 どうしよう。どうすれば良い。混乱のあまりじんわりと涙を浮かべるエレの手に、不意に大きな手が重ねられた。
「落ち着け、エレ」
 耳元でインシオンが囁く。その声に不思議と心が凪いでゆく。
 そうだ、と思い出が蘇る。親を亡くして泣いていた日々、寂しい雨の午後、眠れない夜、凍える冬の朝。この人がこうして手を包んで声をかけてくれて、どんなに安心した事か。そしてこの人をどんなに慕っていた事か。
「お前のアルテアはそんな貧弱なものか? 違うだろ。お前の意志でそれを成せ」
 力強い叱咤はエレに勇気を与えた。言の葉の石に口づけ、しっかりと言葉を紡ぐ。
『消えゆく者の魂をこの世に引き留めるよう、癒せ』
 虹色の蝶がぶわりとエレの手から舞い上がる。蝶は次々と白い尾を引くとヒョウ・カの身体に吸い込まれ、そしてあっという間に傷を塞いだ。
 青ざめていた顔に血の気が戻る。皇王が目を開きゆっくりと起き上がると、臣下達から安堵の息が洩れた。
「ヒョウ・カ」
「姉上」
 エレは花嫁衣装が血で汚れるのもいとわずに弟を抱きしめる。ヒョウ・カの声は申し訳なさで震えていた。
「ごめんなさい。僕は姉上の役に立とうとして、結局迷惑をかけてしまいました」
 その言葉にエレは首を横に振り、弟を抱く腕に力を込めた。
「迷惑などではありません。あなたは私の大切な人を守ろうとしてくれました」
『大切な人』でヒョウ・カがちょっぴりだけうらめしそうな表情でインシオンをちらりと見たのに気づかず、エレは続ける。
「それに、身を呈してソキウスの復讐を止めようと行動してくれました。それはセァクの皇王として立派な行為です」
 姉に褒められて、ヒョウ・カの顔が、火のついたように赤くなる。その傍らにインシオンが膝をつき、
「俺を助けてくれた礼に、誓おう」
 拳を額に当てるセァク式の敬礼で宣誓した。
「必ず破神を、ソキウスを止める。セァクにもイシャナにもこれ以上犠牲は出さねえ」
 だから、と赤の瞳がまっすぐ皇王を見すえる。
「破神を止めた暁には、イシャナと恒久和平を結んで欲しい」
 ヒョウ・カが驚きに目をみはり、周囲のセァク人からもざわめきが起きる。
「イシャナの死神の言葉など受け入れられると思うのか!」
 罵声が飛ぶが、ヒョウ・カが手を掲げてそれを制した。しんと場が静まり返る中、彼はインシオンをまっすぐ見つめて言った。
「誓います。姉上が信じたあなたを僕も信じます。信じ合う事から真の平和が生まれるはずです」
 それを聞いたインシオンが口元をゆるめる。
「話のわかる坊やで良かったぜ。これで駄々こねられたら、エレを人質に取って脅さなきゃならねえところだったからな」
 口調は冗談じみていたが目が笑っていない。半ば本気だったのだろう。納得のゆく返事をもらえて満足したのか、インシオンがすっくと立ち上がる。
「インシオン」
 エレはその背に呼びかけた。
「あなたは、死ぬ気ですね」
 英雄は背中を向けて無言を貫く。それが全ての答えだ。エレは思わず声量を上げていた。
「あなたはたった今言ったばかりではないですか。セァクにもイシャナにもこれ以上の犠牲は出さないと。そこにはあなた自身も含まれているのではないですか」
「……俺は死神だぞ」振り返らないまま彼がぼそりと言った。「死神は生ある人の間では生きられない」
「私だって魔女です」
 今は白い装束をまとった黒の死神の背にすがりついて、エレは涙した。この人の前では何度も泣いた。その度に、大きな手で頭を撫でてくれたのだ。
「死神と魔女なんて、無敵の組み合わせだと思いませんか? 破神とだってきっと戦えます」
 インシオンがあっけにとられた様子で振り返る。彼の顔を真正面から見つめるのは久しぶりだ。エレは自然に微笑んで、そうして落ちていた短剣を拾い上げると、勢いよく掌に刃を滑らせた。
『あなたは生きる』
 言の葉の石を唇に当てながら、流れ出る血の糸を引く手をインシオンの眼前に差し出す。
『死なない。狂わない。真の英雄となる』
 虹色の蝶が黄色に光り、インシオンの胸に吸い込まれる。唖然とそれを見ていた彼が、苦笑いをしてくしゃりとエレの頭を撫でた。
「アルテアで縛るとはな。全く、本当に食えないお姫様だよ、お前は」
 この手が好きだ。声が好きだ。この人の為なら何でもできる。破神と戦う事も不思議と恐くない。
 不謹慎にも笑みの形を取る口を隠す為にわずかにうつむくエレから視線を逸らし、インシオンがヒョウ・カに声をかけた。
「お前と同じように、自分の命をかけて生きた人間を、俺は知ってる」
 ヒョウ・カがきょとんと目をしばたたかせると、インシオンは薄く笑った。
「セァク前王。お前の母親だ」
 その言葉を残して、インシオンはエレの手を取り流れ出る血に舌をはわせた。
 直後、破獣化が始まる。しかしその変化は今までとは異なった。それがエレのアルテアによるものなのか、『神の口』を持つエレの血の作用によるものなのかはわからない。だが、そこにいたのは、今までのような醜い破獣ではない。伝説の生物『竜』を彷彿させる、雄々しい翼と頑丈な鱗を持った神々しい獣の姿だった。
 しかもインシオンの意志を残しているのだろうか、竜は暴れ出す事も無く、赤の目でエレを見つめてから己の背を振り仰ぐ。エレ達に「乗れ」と示唆しているようだった。
 シャンメルがまずその背に飛び乗り、インシオンの剣をしっかり抱え込んだリリムを引き上げる。
「姉上!」
 エレも続こうとしたところで、弟に呼び止められた。
「行かれるのですか」
 ヒョウ・カの視線があまりにも切実に「行くな」と訴えていたが、エレは微笑して言い切った。
「私もインシオン遊撃隊の『エレ』ですから」
 弟の顔がくしゃりと歪む。しかしそれを飲み込んで、少年王は寂しげに目を細めた。
「あなたは、変わってしまわれたのですね」
 その顔を見て、エレは一瞬愁眉を曇らせた。が、踵を返して弟に近づくと、
「あなたも変われます。その勇気をあなたは既に示しました」
 その頬を優しく両手で包み込んで、その名を呼んだ。
「私の大切な、ヒカ」
 初めてもらった愛称に、ヒョウ・カ、いやヒカが赤面する。きっと自分が『エレ』の名をもらった時もこんな顔をしていたんだろうな、と既に過去になった思い出をエレは考えた。
 ヒカが一瞬躊躇った後、
「気をつけて、エレ」
 エレに思い切り抱きついてくる。抱擁に応えると、エレは腕をほどき、仲間達の元へ向かう。
 エレ達三人を乗せた竜はばさりと翼をはためかせ、セァクとイシャナの人々が見守る中、東へ向けて飛び立った。
 最後の希望として。

 扉を開けて入ると、窓際に立って外を見ていた客室の主は振り返り、氷色の瞳を細めた。
『あら、可愛らしいお客様ね』
 褐色の肌に、ゆるい三つ編みに束ねた絹糸のような銀髪が映える。そしてすらりと背が高い。年齢の割に小柄な自分の身体を恨めしく感じる瞬間である。
『逃げてください』
 己の劣等感を今は殺し、相手の瞳が驚きで丸くなるのを想像して告げる。
『イシャナ王はあなたの血を狙っている。会談の場に出れば命は無い』
 しかし氷色は凍り付く事が無かった。少しばかりの諦念を持った色を宿して、『わかっています』と答えたのだ。
『ならば何故、この話に応じたのですか!? 死ぬとわかっていて!』
『だからこそです』
 彫像のように整った顔が引き締められる。
『私が召還に応じなければ、もっと多くの人が死んでいた。セァクもイシャナも関係無く、です。私の命といくばくかの犠牲でこれ以上の死が避けられるなら、私は喜んでこの身を差し出しましょう』
『……おかしいよ』血を吐くような声を絞り出す。『おかしい。あんたも、あの男も』
 しかし相手は嫣然と笑んで『そうですね』とどこか遠くへ視線を馳せた。
『おかしいからこそ、戦を始めたのかもしれません。だからこそ、我々はこれ以上罪を重ねない為に、世界という舞台から去る罰を受けるべきなのでしょう』
 氷色の瞳がこちらを向き、ひんやりした両手が頬を包み込む。その手が滑り落ちたかと思うと、手の中に、鞘に収まった一振りの剣が握り込まされていた。
『かつてセァク帝国の初代皇帝セイ・ギが振るった、破神に関わる者を葬る事ができるという武器です。いざという時、あなたが使って、そうして英雄になってください』
 インとして生きてきた自分が英雄インシオンになれというのか。驚きで目をみはるのはこっちの方だった。してやったりとばかりに相手は微笑む。女神とも狂人ともとられる曖昧な笑みだった。
『私達が去った後、あなたのような優しい子が世界を守ってくれるなら、私も安心です』
 そして細い指の手が、とんと胸を押す。
『さあ、もう行ってください。そしていつか私の子、ヒョウ・カに会う事があったら、母は自分の信念に従って生きたのだと、伝えてください』
 それきり彼女は背を向ける。これ以上の問答は不可能と理解し、踵を返して歩き出す。
 扉が閉ざされ、彼女の意図をそれ以上知る事はかなわなかった。

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