5:つかめない衣(3)

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 月明かりだけが地上を照らす夜半。
 アルセイルの中心街から少し離れた浜辺に、一艘の小舟が辿り着いた。小舟が止まると、そこからよっつの人影が次々と飛び降りる。
 深々とかぶっていた波よけ用コートのフードを引き下ろすと、月光を浴びて青みを帯びた漆黒の髪がばさりと跳ねた。
「ここまでは上手くいったようですね」
 隣でやはりフードを下ろして、白髪をさえざえとした青白さに輝かせる青年を横目で見やって、黒髪の青年――インシオンは、目を細め浅くうなずいた。
 ソキウスの『神の耳』は破神の血を浴びた人間の声を追跡する事ができる。そしてその範囲は果てしなく広い。
『流石に大陸外へ届くかどうかは、私も試した事がありませんので』
 ソキウスはそう苦笑いしながらも、見事な仕事をした。わずかながらもエレの声を拾いあげ、南海を漂う島国の位置を正確に特定したのである。そしてレイ王が手配してくれた船で外洋を進み、アルセイルへ辿り着いた。
 いきなり軍船で乗り込んではそれこそ外交問題だ。イシャナに一方的な非が及んでしまう。焦りはあったが、そんな愚を犯さないだけの冷静さは、インシオンにも残っていた。船を沖合に待機させて、遊撃隊の面々だけで小舟を操って上陸したのである。
 ソキウスの『耳』を頼りにするならば、エレは間違い無くこの島にいる。しかし気になるのは、エレの声を『聴いた』時のソキウスの言葉であった。
『聴きづらいにしては、途切れ途切れ過ぎるのです。何か、声を出しにくい状況下に置かれているのではないでしょうか』
 声を発する事ができなければ、エレはアルテアを使えない。戦力のほとんどを奪われている事になる。いくらこの半年で護身術だの剣の基本だのを教えてやったといえど、たかが半年。どこまで通用するかなど、幼少期に退役軍人の養父に厳しく戦闘のいろはを叩き込まれたインシオンだからこそ予想がつく事だ。
「とにかくさー」
 波に濡れたコートを脱いで小舟の中に投げ込みながら、シャンメルがぼやいた。
「行くなら早く行こうよ。エレの居場所、わかってるんでしょ? オレの『足』でぱぱーっとさ」
「敵の真っ只中に飛び込んで大立ち回り、ですか? ああ、私としてはそれも構わないですけどね」
 ソキウスが呑気に同意しつつも、インシオンの顔色をちらりとうかがった。
「我々の隊長は、血の流れない絡め手をお望みのようなので、静かに行動するしか無いようです」
 頭の良い男ではあったが、そこまで読まれているのか。実は自分は隠し事が出来ない性質たちなのかと、今更ながら思う。もしかして、秘めていた感情もエレにだだ漏れだったのだろうか。だとしたら相当恥ずかしい。
(いや、あいつもとことん鈍いからな、それは無い)
 必死に頭を振って否定した時。
「……見える」
 リリムが表情を硬くして小さく呟いた。ソキウスも目を細めて洩らす。
「これは……エレの声ではない、これだけの声が聴こえるとは」
『神の目』と『神の耳』が捉えられるのは、破獣か、破神の血を持つ人間の存在だけだ。それが 『見える』『聴こえる』という事は。緊張に身を固くする一同の視界に、町の方から松明の灯りが揺れて、迷う事無くまっすぐ近づいて来るのが見えた。
「どうやら、こちらの動きは読まれていたようですね」
 ソキウスが低く囁く。金属のこすれ合う音も聞こえる。どう楽観的に見積もっても、歓迎してくれる様子ではなさそうだ。
「手、取って」
 唐突にシャンメルが口を開き、両手を三人に向けて差し出した。彼が何をしようとしているのか悟り、まずリリムが彼の右手をぎゅっと握り締める。続いてインシオンとソキウスが左手にそれぞれの手を重ねると、シャンメルがいつに無く真剣な表情になって、『駆けた』。
 あらゆる障害を無視して、常人の数倍の速度で走り抜ける『神の足』。それはシャンメル本人だけでなく、彼に触れた全ての存在に効力が及ぶ。しかし、距離だけでなく同行する人数にも比例して、代償に彼が削る命の量は増すのだ。
 町を抜け、人気の無い林に辿り着いた所で、シャンメルが止まり、ぜえぜえ息をつきながらその場にへたり込んだ。エレがさらわれてからこっち、『神の足』を酷使しすぎて、彼の寿命は随分とすり減っただろう。
「……すまん」
 申し訳無さを感じてインシオンが詫びると、「いーって」と少年は顔の前で手を振った。
「ていうかさ、あんたが謝るとかほんと気持ち悪くてしょーがない。それもエレのおかげ?」
 相当しんどいだろうに、軽口を叩く事を忘れない。シャンメルこそ、昔は他人の命も己の命も軽んじて、無茶な戦い方をするばかりだったのに、人の為に自分の命を使う事を覚えた。エレの影響が大きいだろう。
 リリムも、人形みたいで笑ったところなど見た事も無かったのに、よくはにかむようになった。ソキウスまで変わった。エレの存在が自分以外の人間にもどれだけ影響を与えたか、インシオンはよく知っている。だからこそ、エレを取り戻したい。誰もが笑っていられるように。誰より、自分自身の為に。
「分かれて逃げましょう」
 ぐっと拳を握りしめるインシオンに、ソキウスが提案を投げかけた。意図をはかりかねて眉間に皺を寄せると、「大丈夫ですよ」彼は肩をすくめる。
「正直言ってあなたの事は今も嫌いですが、エレを悲しませる訳にはいきませんからね。彼女を救い出す為の最善の策を提示したまでです」
 インシオンは最終手段として破獣化で切り抜けられる。シャンメルも身体のもつ限り『足』が使えるだろう。だが、リリムとソキウスの能力は、対象を感知する事ができても、対抗するには向かない。ソキウスには『神の手』で相手の意志や記憶を操作するという文字通り奥の手もあるが、彼自身の記憶を代償とする。それはエレが望まないと知っている以上、ソキウスも『手』は使わないだろう。
 それでも、ソキウスの言う事が今は一番正しい。このまま四人で逃げ回っていても、シャンメルに負担をかけるばかりな上、捕まったら一巻の終わりだ。それならば、各自別々に行動した方が、誰かがエレの元へ辿り着ける確率は跳ね上がる。
 インシオンは深々と溜息をつき、それから、赤の瞳を険しく細めて三人を見渡す。そして、
「隊長として命じる」
 力強く、告げた。
「死んでも生きろ」
「わー、それでこそうちの隊長」
「了解」
「死にたくてもそうそう死ねませんからね」
 シャンメルがからりと笑い、リリムが片手を挙げ、ソキウスが自虐的に微笑む。それから、誰もが真顔になって、誰からともなく拳を突き合わせた。それぞれの腕にはまった、それぞれの瞳の色と同じ腕輪がこすれ合って、かしゃんと小さく鳴く。再び誰からともなく拳が離れ、四人は別々の方角へと走り出した。
 暗い林の中を、インシオンは駆けた。自分はインだ。闇に溶ける方法は良く知っている。走る足、衣擦れ、揺れる剣帯、踏みしだく枝、跳ねる土、己の呼吸まで。あらゆる音を最小限に抑える手段は心得ていた。こうして闇を駆け、背後から標的に近づいて喉笛をかき切った事もある。英雄インシオンになる前、前王の懐刀としていいように使われ、血を浴びていた頃の思い出だ。こんな時に思い出すとは。
 嫌な記憶に舌打ちした時、身体の奥からこみ上げる衝動に、インシオンは小さく呻いてつんのめった。受け身も取れずに倒れ込む。張り出した枝で深く頬を切ったが、傷を気にしている場合ではなかった。
 全身の血が沸騰したように熱い。喉が渇きを訴える。しかし欲するのは水ではない。他の何かの血だ。がりがりと地面を引っかく指が、鋭い爪を有したどす黒い手に変わってゆく。
 破獣化の衝動。数週間前に来たばかりなのに、こんなに短い期間でまた巡ってくるなど、今まで無かった。『神の血』の回復力に頼り過ぎた反動なのか。
 暗い林の中で泥にまみれて無様にのたうち回る。口の中に土が入ったが、まずいと思う味覚などとうに麻痺している。死んでも生きろ、と仲間達に言っておいて、言い出した本人が危機に陥っているなど洒落にもならない。牙に変わり始めた歯で唇をぎりぎりと噛み、生温い液体が口元を伝い落ちるのを感じた時、地面を踏みしめて近づいて来る複数の足音と、ぶれる視界の端で踊る炎の揺らめきを、インシオンは聴き、見た。
 貫頭衣に身を包み、片刃剣で武装した男達。ディルアトでエレを連れ去った船に乗っていた連中と同じ格好だ。やはりアルセイルがエレをさらったのだという確信を得たが、今はそれどころではない。あの時も容赦無く破神殺しの矢を浴びせかけて来たのだ。今、満足に動けないインシオンを始末する事は容易いだろう。
 ぎりっと歯噛みして、せめてもの抵抗に先頭の男を睨む。彼は手にしていた松明を背後の別の男に渡すと、ゆっくりとインシオンの元へ歩み寄って来て、傍らに膝をつき、次の瞬間、予想だにしていなかった行動に出た。
 彼は短剣を取り出したかと思うと、それをインシオンに突き立てる事をしなかった。己の掌を、躊躇う事無く切り裂いたのである。
 想定外の展開に戸惑うインシオンの前に、赤い流れが差し出される。
「どうぞ。破神の血を持つ異邦人よ」
 男がおごそかに告げた。
「破獣化を鎮めるには、血脈の濃さに関わらず同類の血を飲むのが最も有効です。大陸には伝わっておりませぬか」
 破神になるのと全く同じ方法が、真逆の効果を持っていたというのか。驚きのあまり言葉を失ってしまうインシオンの口元に手を押し当てて、男は再度言ったのだった。
「どうぞ、自分の血をお召しください」

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