3:海底の氷女ひめ王(1)

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 ふっと。
 予感があって、エレは辺りを見渡した。誰かに呼ばれた気がしたのだが、周囲の甲板には、忙しく立ち回る船員ばかりで、エレに注意を向ける者はいない。
 空耳だったのだろうか。上空に視線を向ける。灰色の雲が立ちこめ、昼間なのに薄暗く、風も強さを増している。もうすぐ雨が降るだろう。悪天候の中を船が進む困難さは話には聞いているが、実際に経験するのは初めてだ。雨よりも雪の方が多いセァクで長く暮らしていたエレとしては、不謹慎と言われるだろうが、状況を見てみたいという好奇心もほんの少しある。
 アルセイルの船で連れ去られた時は激しい船酔いに苛まれたが、あれでだいぶ慣れたらしい。今度の船旅は体調を崩す事も無く、順調に過ぎた。あと数日もすれば、イシャナ王国の港町ディルアトに着くだろうと、船長は教えてくれた。
 大陸からやって来たアーキとも合流し、対面を果たした。彼女はプリムラ姫がエレの事を心から案じていると伝えてくれた。
 今、レイ王が亡くなり、インシオンも傍にいない状態で、ひどく寂しい思いをしているのはプリムラの方だろう。早く再会して、抱き合って一緒に思い切り泣きたい。そう思うと同時に、もしかしたらそれは弟のヒカの役目ではないかとも考える。ヒカも成長したのだ。こういう時に真っ先に婚約者の所へ駆けつけ慰める男気を見せているだろうか。もししていなかったら、姉として叱り飛ばす事も辞さないつもりだ。
「エレ」
 色々思考していると、今度こそ名を呼ばれたので、振り向く。黒髪と黒装束を風になびかせながら、インシオンが歩み寄って来るところだった。彼はエレと並んで船の縁にもたれかかって、遠くを眺める。エレも倣って水平線に視線を馳せた。
「……平気か」
 こちらを向かないまま、インシオンが訊ねた。主語が無いので意図を汲み取るまでに数秒かかってしまったが、理解する。破獣カイダ化に苦しんでいないかという意味だ。
 アルセイルで第二王妃に刺されて死の淵へ落ちかけたエレに、インシオンが自分の血を与える事で、エレは『神の血』を受け、インシオンと同じだけの回復力を得た。しかしそれは、インシオンと同じように破獣化の衝動という反動を伴うものだった。カナタの血を口にして以来、苦痛に襲われる事は無かったが、あの激しい飢餓感を思い出すと、次はいつどこであの苦しみを味わうのか、恐怖が湧き起こってくる。
 だが隣に立つこの人は、そんな思いを十数年も抱えて生きてきたのだ。自分ごときがたった一回で音をあげている場合ではない。
「インシオンこそ、大丈夫ですか」
 気遣う声をかけると、赤の瞳がつとこちらを向き、呆れ気味に細められた。
「俺はどうでもいいんだよ。慣れてるから」
「慣れているとか、そういう問題ではないと思います」
 周期的にあの衝動に襲われて、治まるまで一人でのたうち回るのは、相当な責め苦だったろう。あまり喜ばしい事ではないが、やっと同じ思いを共有できる場所までたどり着けたのだ。この人とならばどんな苦労でも分かち合いたい。
「責任を感じているのなら、約束してください」
 自分より頭半分背の高い青年を見上げ、言葉を紡ぐ。
「もう破獣化の衝動を私に隠さないでください。辛い時は辛いと言ってください。私であなたを助けられる事があるのなら、何でも求めてください」
 翠眼に凛とした力を宿して、エレは己の胸に手を当てた。
「血が必要なら、私からいくらでも持って行ってください。私もそう簡単に死にませんから」
『神の血』による破獣化を抑える方法は、破神タドミールの血を受け継ぐ人間の血を口にする事なのだと、ソキウスが教えてくれた。
『私は破獣化の影響を受けていないのですよ。もう破神にもなれません』
『神の手』も使わないとあなたの為に誓いましたから、遊撃隊の中では最弱のお荷物です、と彼は苦笑して肩をすくめたものだ。
 エレの決意をどう受け取ったのか、インシオンがくすぐったそうに顔をしかめる。言い方を間違えたかと不安になった時、不意に背に腕が回され、彼の顔が間近に迫った。
「なら、お前も約束しろ」
 耳朶をなめそうな距離で囁かれて、頬が熱くなる。
「お前が破獣化に苦しんだら、俺以外の血を口にするんじゃねえ。ソキウスなんか論外だからな」
 インシオンの言う事は理に適っている。与え与えられる関係なら対等だ。血を流しても『神の血』ですぐに傷が癒える同士、他の誰にも迷惑をかけない。しかしどうしてそこで敢えてソキウスの名前が強調されるのだろう。
 それにこのところ、インシオンはやたら自分を腕の中に収めてくれる気がする。そんなに近づかれたら、勘違いしてしまう。自分は彼から見たら、娘みたいな存在。そうわかっているのに、変な期待をかけてしまうではないか。それとも、娘としか見ていないからこそ、抱き締める事に抵抗が無いのか。
 他の遊撃隊の面々が聞いたら「鈍いねー」「鈍いわ」「鈍いですね」の三重唱が奏でられるだろう独白を繰り広げているとも知らず、エレは大騒ぎする心臓に静まれと必死に命じながら、ぎこちなくうなずいた。
 空はいよいよ暗くなり、ぽつ、ぽつと泣き始める。風もざわめき、船の帆がばたばた騒ぎ出す。波がうねりを増した気がした。
「そろそろ船室に戻ってろ」
 インシオンが腕を離し、エレの肩を軽く押す。少しは役に立てる事があるのではないか。むっとした表情を向けると、溜息が降ってきた。
「お前な、荒れた海を知らない人間が手伝ったところで、逆に邪魔になるだけだ。俺達は戦うしか能が無いんだから、大人しく引っ込んでるべきなんだよ」
 そう言われては反論する余地が無い。唇を尖らせながらうつむき、「……わかりました」と小さく言った時。
 風に乗って運ばれて来たかすかな音を、エレの耳は敏感に聴き取って顔を上げた。
「声が、聴こえませんでしたか」
 インシオンには聴こえなかったらしい。怪訝そうに眉をひそめる。しかし直後、今度はたしかな音色が波間から漂って来た。

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