3:海底の氷女ひめ王(4)

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『ここから東の沖合に出るとだなあ、突然岩場があって、そこできらきら綺麗な都へ招待しとくれーって叫ぶと、波間からでっかいセイレーンのしもべが現れて、海の底へ引きずり込むんだよお』
 集落一番の長老である老人は、ところどころ歯の抜けた口を開いてにっかりと笑った。
『儂の若い頃、不漁が続いたせいで、自棄になって集団でやらかした事があってなあ。帰って来たのは不細工ばかしだったから、セイレーンはいい男しか興味ねえんだって肩落として、それから真面目に働いたわあ』
 老人はやたら陽気に語ってくれたが、最前まで共にいた仲間が海底へ消えたのだ。味わった恐怖は相当なものであっただろう。一旦はセイレーンの元へ行こうとした者がまっとうに働き直したのも、実際に海の種族が人間を簡単に連れ去る様を目の当たりにして、現実逃避から覚めた為に違いない。
『しかしあんたはべっぴんさんだからなあ。セイレーンが妬んで、鯨に丸呑みさせちまうかもしれんぞお』
 老人はそう脅したが、エレの気概はそれくらいで折れるものではなかった。もし鯨に呑まれたら、腹の中でアルテアを使ってでも海底に辿り着いてみせる。そんな思い定めすらあった。
 荷物は最低限。その中に、インシオンが持っていた鋼水晶の剣もある。船長が海から拾い上げていたものを渡してくれたのだ。刀身がむき出しのままだったので、集落で職人に頼み込み新しい鞘を作ってもらった。
 必ずこの剣を手渡しでインシオンに返そう。その決意を胸に宿して、エレは一人櫂を漕いで海を進む。女の細腕が波をかき分けるのは一苦労だったが、こんな事くらいで泣き言を洩らしていられないという執念にも似た思いが、今のエレを突き動かしていた。
 やがて、一面の水平線だった視界に、黒い影が見えて来る。老人の言っていた岩場はこれだろう。遠い昔に海底火山が噴火してできあがったという溶岩の小島は、破神を彷彿させる巨大な獣が降り立ってそのまま石化したかのように複雑な姿を成形して、打ち寄せる波を浴びていた。
 小舟を近づける。岩の形が厄介なせいで完全には接岸できないので、舟の縁に足をかけて舟底を蹴り、飛び移った。着地の時に体勢を崩して膝をついてしまい、痛みが走る。ごつごつした岩にぶつけた膝は容易くすりむけて、血がにじんでいた。だが、今のエレには『神の血』があるのだ。こんな傷ごとき、いちいち気にしている場合ではない。とりあえずごしごしと拳で血を拭うと、鋼水晶の剣を右手で抱き締め、左手で言の葉の石をつかんで、唇に押し当てた。
 エレは男ではない。セイレーンに魅入られないなら、自分の持てる方法で辿り着くしか無い。
『海の民の遣いよ、都へ赴く案内を』
 賭けではあったが、アルテアは見事に功を奏した。虹色の蝶が青く輝いて波間に吸い込まれると、穏やかだった海が突然波の高さを増し、向こうから何かが泳いで来るのが見える。
 エレの前まで来てざばりと水面から顔を出したのは、巨大な海蛇だった。潮に濡れた紺碧の鱗が太陽光を受けてきらきらと七色に光る様は、神々しくすらある。『でっかいセイレーンのしもべ』は間違いなくこの海蛇だろう。
 海蛇は金剛石のような銀色の瞳を細めて、エレの前に顔を近づけると、ぱくりと口を開けた。人間一人くらい簡単に呑み込めそうな大きさだ。
「もしかして、口の中に入らないといけませんか?」
 相手は人ではないのだから答えなど無いとわかっていても、つい声に出して訊ねてしまった。まさか本当に海の遣いに呑まれる羽目になるとは思っていなかったので、さすがに怖気づいてしまう。
 しかし、こうしている間にも刻々と事態は手遅れに向けて過ぎてゆくばかりだろう。エレは腹をくくって、海蛇の口内へと飛び込んだ。じっとりとした生温かい空気が全身を包み込んだかと思うと、海蛇が口を閉じ、暗闇に包まれる。浮遊感が訪れて、海蛇が泳ぎ出した事をエレの身に知らせた。
 海蛇は一定の速さで泳ぎ続けた。数分か、数十分か、数時間か。時の感覚もわからずにいよいよ不安になって来た頃、海蛇が速度を落とす気配がした。そのままゆっくりと停止し、ぱくりと口を開く。暗い場所へいきなり光が差し込んできたので目がちかちかして、エレは思わず目を閉じ手で覆ってしまった。
 ようよう目が慣れてきたので、そっと手を退ける。そしてゆっくりと海蛇の口からはい出して、眼前に広がる光景に、息をする事も忘れて見入ってしまった。
 一面蒼の世界だった。つやつやの床、そそり立つ波の壁、海の中とは思えない高い天井。全てが蒼で彩られている。やはり蒼色をした涙型の硝子細工にも似た飾りが幾つも幾つも連なってぶら下がっており、天井の水が波打つ度に揺れて輝き、この世のものとは思えぬ高音の多重奏を謡った。
 海蛇が口を閉じて、水の壁の向こうへ首を引っ込める。
「ありがとうございました」
 エレが深々と頭を下げると、気のせいか、海蛇はわずかにうなずいたように見えた。そのまま海の向こうへと優雅に泳ぎ去ってゆく。エレは水の壁に手を触れる。冷たい海水の感触はあるが、手が濡れる事は無い。すぐ目の前を、真っ白い身体をした魚が泳いでゆく。魚はエレを意識する事無く悠々と過ぎ去った。まるでこの空間だけ、周りの海から切り離された世界であるかのようだ。
 海底の都の話は、セァクの御伽話にも残っている。そこで語られた都の姿は、色とりどりの貝や水底の岩で造られた、地上の城にも負けない豪奢な建物だった。魚や亀、蟹ややどかりなど海の生き物が、貝の楽器を奏でて訪問者を盛大に出迎え、艶やかな衣をまとった娘達が舞いを披露し、何日いても飽きないもてなしをしてくれる。そんな話だった。
 しかし今目の前に広がる都はどうか。海から隔てられて、大勢の生き物の息遣いは聞こえない。蒼色の廊下が奥までずっと続いているばかりで、亀の衛兵も出迎えの海星もおらず、寂寥感さえ覚える。御伽話は所詮想像の産物とわかってはいたが、こうも実際の環境と違うと、少し拍子抜けの感も無くはない。
 とにかく、ここにとどまっていても仕方が無い。奥へ向けて足を踏み出したエレの前に、静かに進み出る者がいて、エレは足を止め、そして目をみはった。
 破獣だった。陸の破獣ではない。翼の代わりに水かきと鰭を持つ、海破獣だ。しかし今、眼前の破獣から敵意は感じられない。彼、あるいは彼女は、エレの前に膝をついて恭しく頭を垂れると、大きな水かきのついた手で、奥を示したのである。案内してくれるという事だろうか。
 今までの人生経験から、最早ちょっとやそっとでは動じないと思っていたエレだが、まだまだ驚かされる事は多そうだ。指で眉間をおさえてしばらく目をつむった後、目を開き、「お願いします」と破獣に頭を下げた。破獣にお辞儀をした人間は恐らく空前絶後、エレ一人だろう。
 しかし破獣はエレの言葉を聞き入れたようだった。すっと立ち上がると、ぺたぺたと足鰭で蒼色の床を踏みしめて歩き出した。その後に続いてエレも歩を進める。
 しゃらしゃらと涙型の細工が謡う中、どこまでも続く蒼い廊下を、エレは破獣の後ろについて歩く。その間に、幾つかの視線を感じて、見回す。海破獣達が、そこかしこの柱の陰からこちらの様子を物珍しそうにうかがっていた。海底の都に人間、しかも女が来る事は余程の椿事なのだろう。興味が尽きないのはお互い様のようである。それにしても、海破獣がこうも人間らしい反応を見せるのは意外だ。不思議に思いながら少し開けた場所へ踏み込んだ時、エレはまたも怯んでしまって、一瞬歩を止めた。
 見渡す一面、氷の柱が打ち立てられていた。その中に何かが収まっている。目を凝らしてよくよく見ると、それは白骨だった。しかも破獣ではなく、完全な人間の骨格をしている。それが何百とあるのだ。まるで墓標のように。
「それは今までこの都に招待した男達の、なれの果てよ」
 絹に手を滑らせたような艶のある声が、呆然と立ち尽くすエレの鼓膜を叩いた。振り向けば、海破獣がその場に膝をついてかしこまっている。しゃらり、と装飾品のこすれ合う音を立てながら現れたのは、女性だった。

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