5:二人きりの夜(1)

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「……レ、エレ」
 波の音がする中、聴くと安心する声が耳を撫で、頼りがいある腕が身体を揺らしている。久しぶりの安堵感に包まれながら、エレの意識はゆるゆると覚醒した。
 赤い瞳が不安げにこちらを見下ろしている。無意識にへらっと笑いを洩らすと、心配の色がより一層濃くなった。
「おい、まじで大丈夫かお前。変なとこ打ってないだろうな」
 いや、心配というよりは呆れているのだろうか。大きな手がぐりぐりと頭を撫で回した。たんこぶを作っていないか探しているのだろう。
「すみません、大丈夫です」
 やっと思考が現実に追いついてくる。どうせ『神の血』ですぐ回復してしまうのだからたんこぶも無いだろうに。そう思うと何だかおかしくて、くすくす笑いながらエレはインシオンの手を借りて身を起こした。
「変な夢見たぞ。お前に助けられる夢」
 インシオンが憮然としながら、不本意だ、と半眼になる。彼は何があったかなど覚えていないだろう。エレが単身海底の都に乗り込んで海の女王と対峙したなどと話したら、
『お前はまた無謀な真似しやがって!』
 と小突かれる事は目に見えているので、今回の冒険譚は自分一人の胸にしまっておこうと決めた。のだが。
「妙に現実味があるんだよな。お前が誰かに向けてアルテアを使った声も聞こえた気がするし」
 インシオンがぶつぶつ呟きながらこちらを向いて、怪訝そうに眉間に皺を寄せ、胸元を指でつついた。
「お前、石はどうした」
 どきりとしながら首に手をやる。言の葉の石はその力を使い果たして壊れてしまったのだ。それを話したら、一切合切喋らなくてはならなくなる。
「あの」視線を泳がせながら、エレは必死に言い訳を探した。「海に落ちた時に失くしました」
「……アルセイルの連中が聞いたら泣くぞ」
 インシオンが呆れ切った様子でがりがり頭をかくので、「でも!」と即座に剣を差し出す。
「これは失くしませんでしたよ」
 愛剣に別の鞘がついている事について、インシオンは訝しんだようだが、必要以上に問い詰める事をしなかった。無言で受け取り、空になった元の鞘を外して新しい鞘ごと剣帯に装備した。
 ようやっと周囲に目を向ける余裕が出てきたので、辺りを見回す。どこかの無人島の浜辺のようだ。空はまだ青いが、太陽はかなり西へ傾いている。日が暮れたらあっという間に真っ暗だろう。
「ここで夜を明かす事を考えないといけねえな。とりあえず飯の確保か」
 インシオンが独り言のように洩らし、今装備したばかりの剣帯を外したかと思うと、上着とシャツを次々と脱ぎ捨てた。鍛えられた肉体が露になり、エレは顔を真っ赤にしながらも、目が離せずに凝視してしまう。そういえば、前に見た時も、傷の無い綺麗な身体だと思ったが、『神の血』で回復する事を思えば、当然だったのだろう。どんなに苦しい思いをしても、傷痕すら証拠として残せないというのは、逆に辛い事かもしれないが。
 インシオンはエレの複雑な思いを込めた視線も気に留めず服と靴を浜辺に放ると、ざぶざぶと海へ入って行く。
「あ、あの、インシオン?」
 何をするつもりなのかわからなくてしどもど問いかけると、彼は振り返り、にっと笑ってみせた。
「潜って、食えそうな物を採ってくる。子供の頃、養父ジジイに海に連れて行かれて、『自分の食う分は自分で採れ』って放り込まれたからな。お前は浜辺の貝でも拾っとけ」
 そう言い残して腰まで水に浸かったところで、思い出したように彼は再度こちらを向き、びっと指差してきた。
「一応言っとくが、最初から口開けてる貝なんざ拾うんじゃねえぞ。腹壊すからな。ちゃんと閉じてるのを探せ」
 言われなければ、開いた貝を探していただろう。遊撃隊生活にも大分慣れたつもりだが、まだまだ世間知らずなところは抜けていない。自省しながら、エレは「……はい」と返事するしかできなかった。
 インシオンが大きく息を吸い込んだかと思うと、ざぶんと派手な水飛沫をあげて海中に姿を消す。エレも波打ち際を歩き、屈み込んでは小さな穴を探し砂を掘って、きちんと口を閉じている二枚貝を集め始めた。
(木の実でもあった方がいいかな)
 十個ほど見つけたところで、その考えに至り、浜辺の近くに群生している林へ入った。拳大の赤い実が生っているのを見つけて、思わず笑顔で手を伸ばす。もぎ取ってにおいをかいでみると、甘酸っぱい香りが鼻を抜けてゆく。毒素を持っている様子は無さそうだ。数個もいで両腕に抱え込み、浜辺へ戻った。
 インシオンは一度顔を出してまた潜ったようだ。さっきまで無かった貝類や魚が浜辺に放り出されている。さしあたってやる事が無くなってしまったので、エレは砂浜に腰を下ろし、寄せる波をぼんやりと眺めていたのだが、ふっと近くの潮溜まりへ目をやった。
 立ち上がり近寄って、のぞき込む。小さな魚が数匹悠々と泳いでいるのがわかった。
「……これも採れたらおかずになりますかね」
 ひとりごちて靴と靴下を脱ぎ、潮溜まりにそっと足を踏み入れる。水面に波紋が広がった途端、魚達が散るように逃げ出した。慌てて水中に手を突っ込んで追いかけるが、魚達はエレの必死の努力を嘲笑うように手の間をするりするりと抜け出てしまう。夢中になって追いかけていると、ぬめった岩でつるりと足を滑らせ、体勢を崩した。
 立て直す間は無かった。天地を失ってエレは水の中に倒れ込んだ。塩辛い水が口の中に流れ込んで来て、咳き込むと更に喉が詰まる。目が痛くて開けていられない。耳にも水が入ったらしくぼうっと閉塞音が鳴って何も聞こえなくなった。
 海底の都から生還したのに、魚を採ろうとして溺れ死ぬなど馬鹿な末路を辿りたくない。恐怖で必死にもがくが、手は空をつかむばかり。絶望感に胸が黒く塗りつぶされた時。
「何やってんだ!」
 突然耳にインシオンの声が突き刺さって、一気に辺りの音が聴こえるようになった。ぐいと腕を引かれてやっと口が息を吸えるようになり、一生懸命空気をかき込む。
「お、溺れ……」
「こんな所で溺れるか、馬鹿たれ! しゃんと立て!」
 すがりつきながらようよう言葉を吐き出すと、両肩をつかまれてしっかり立たされた。はっと現実に立ち返れば、海水はエレのすねほどまでしか無い。ここで命懸けでもがいていたと知った途端、とんでもない羞恥がエレの胸に訪れた。
「……ったく」
 エレの肩に手を置いたまま、インシオンが深々と溜息をついて顔を伏せる。
「本当にいちいち驚かせやがる奴だな、お前。寿命が縮んだぞ」
「す、すみません……」
 今回ばかりは素直に詫びるしか無い。頭からしとどに濡れて、海藻を髪にへばりつかせたまま、エレはしょんぼりとうなだれた。

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