8:最後のアルテア(1)

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 セァク皇国首都レンハストより更に北、ケリューンの山並は既に雪を戴いていた。山頂には寒風が吹き荒れ、ごうごうと唸りをあげている。
 かつて初代皇帝セイ・ギが破神タドミールとなって飛び立った地。今は読める者もほとんどいないヒノモトの言の葉を使った円陣が描かれ、四本の石柱が天に向かって屹立する祭壇に、千年ぶりに訪れる者がいた。
 蝙蝠のような翼を羽ばたかせ、赤いたてがみを風になぶられて、ゆっくりと円陣の上に降り立つ白い破獣カイダ。それは地面に降りたってうずくまり、ぶるりと震えると、次第次第に人――エレの姿を取り戻した。
 エレはしばらく、肩で大きく息を繰り返していたが、とある瞬間に、ふっつりと糸が切れた人形のように、地面に横たわってしまった。
 風に煽られながら雪が降る。冷たい地面は少しずつ身体の熱を奪ってゆく。このまま白に埋もれ、何もかも忘れて、誰にも知られずにこの世界を去りたい。それが今、エレの思考を支配していた。いくら『神の血』を持つ人間でも、体温が死線を超えれば生命を終わらせられるだろう。ゆるやかな自殺に身を任せようと目を閉じた時。
「エレ、見つけたあ!」
 あまりにも場違いな明るい声が耳に届いて、エレは目を開き、がばりと上体を起こした。既に身体にうっすら積もっていた雪が滑り落ちてゆく。
 雪の中歩いてくるのは、カナタだった。どうしてここまで追ってこられたのか。心の内の疑念を読み取ったかのように、少年はにっこりと笑う。
「だって僕のアルテアは最強だもの。他の『神の力』でできるような事、全部できるよ。あなたの行方を追う事だって」
 リリムの『目』やソキウスの『耳』に近い事もできるという訳か。
「それにほら、『神の血』も持ってる。エレとおそろいさ」
 言うが早いか、彼は短剣を取り出して自分の手首を切りつける。ぽたぽたとこぼれ落ちる血が雪に赤い染みを作ったが、それもほんの少しの間で、あっという間に流れは止まり、少年が拳で血を拭ってみせた傷は、痕も残さず綺麗に消えていた。
「僕、エレの為に一生懸命頑張ったんだよ。エレを助ける方法を探して、剣もアルテアも努力したし、この力を最大限に活かす方法も必死に考えた」
 だからさ、と少年が歩み寄ってきて、膝を抱えてしゃがみ、エレの顔をのぞきこむ。
「エレ、僕にアルテアを使ってよ。僕を破神にして。それで西方を焼けば、やっとみんな幸せになれるから」
 相変わらずこの少年の言う事がわからない。だが、底知れぬ狂気だけは感じて取れる。再び破獣になって逃げようと、咄嗟に立ち上がった時。
『駄目だよ、エレ。逃がさない』
 カナタが濁りあるアルテアを紡ぐ。虹色の蝗が複数匹エレに飛びかかってきたかと思うと、頑丈な鎖に変化してエレの手足に絡みつき、柱に繋いでしまった。もがいてみても、ちょっとやそっとの力ではびくともしない。
「ああ、ごめんね。でもエレが悪いんだよ? いつもいつも僕を置いて行こうとするから」
 口では謝りながら、悪びれた様子などまったく無く、カナタが近寄ってきて、身動きの取れないエレの頬に手を添える。
「人を完全な破神にするには、濁りのあるアルテアを紡がなくちゃいけない。エレはそれで死んだ」
 両手でエレの顔を包み込み、カナタは必要以上にエレに接近して、満面の笑みで声を張り上げた。
「でも今度は大丈夫! そうしたら僕のアルテアでエレを生き返らせてあげる! 今の僕ならできるもの、今度こそ失敗しないよ!」
 自分は絶対に間違っていないという自信に満ちた宣誓だ。エレの背中を怖気が這い上がる。
「破神は人が干渉してはいけない領域です」
 自由にならない身体の中、心の強さだけは失うまいと決意して、少年を睨みつける。
「あの力に頼って、多くの人を殺す事は、もうあってはなりません。私は、あなたにアルテアを使う事なんてしません」
 カナタが、信じられないとばかりに目を見開き、「……何で?」と、本当にわからない様子で頭を振った。
「エレの為なんだよ? どうして僕の言う事を聞いてくれないの? 何でわかってくれないの? 世界がエレを殺したんだ! その世界を壊して何が悪いの!? 僕はあなたが一番大事なんだ! あなたがいてくれればもう他に何もいらないのに、何であなたまで僕を否定するの!?」
 エレの襟首をつかみ、がくがくと揺さぶりながら、カナタは次第に激昂する。この少年がエレを想ってくれているのはわかるのに、どうしても受け入れる事ができない。インシオンと同じ黒髪をしていても、自分と同じ翠の瞳をしていても、彼はインシオンではないし、感情の共有もできない。あの人以外を想う事など、もうできない。
「……もういいよ」
 懇願にもエレが屈しない事を察したのか、カナタが顔を伏せ、低い声で呟いた。
「アルテアを使うよ。あなたが僕以外を見ないように。僕の言う事だけを聞いてくれるように。それであなたは僕のものだ」
 再び面を上げた少年の翠眼は、既に破綻をきたして曇っていた。へらっと薄気味悪い笑みを浮かべて、首を左右に振る。
「全部あなたが悪いんだよ? 僕の言う事を聞いてくれないから。僕を認めてくれないから」
 言の葉の石を唇に当てて、「エレ」と深淵へ引きずり込むような蠱惑的な声が耳に届いた、その時。
 ごう、と一際強い風が吹いて、カナタがぎょっとした表情のままエレの前から消えた。いや、突風に煽られて吹っ飛んだのだ。良いのか悪いのか、鎖で拘束されていたエレは飛ばされず、髪や服を吹き上げられるだけで済んだのだが。
 一体何事か。思わずつむっていた目を開いて、視界に飛び込んできたそれを見、エレは言葉を失ってしまう。
 幻かと思った。いつかの出来事を夢で追体験しているのかとも。だがそれは確かな息遣いをもって、そこにいる。ただの破獣ではない。破神でもない。黒い鱗に覆われた翼持つ獣。かつてその背に乗って破神と戦った、黒き竜。
 赤い眼球がぎょろりとこちらを向く。半年前に出会った頃、よくそうして睨まれたのを思い出し、反射的に身を固くしてしまう。
『竜の身を捨て、人の身へ』
 アルテアが紡がれたとわかったのは、虹色の小鳥が乱舞したからだった。黒竜の姿が消え、その場から黒髪に黒装束の青年――インシオンがゆらりと立ち上がる。赤の瞳が怒気を孕んでこちらを見つめている。ああ、この目でよく怒られたな、と場違いに呑気な考えが脳を占めた。
 インシオンの後ろにはシャンメル、リリム、ソキウスがいた。懐かしい面々に目の奥が熱くなる。更に後方から心配そうな表情を向けているのは、ミライと呼ばれていた少女だ。彼女までエレの身を案じてくれていたのか。
「何だよ、今更!」
 カナタの怒声が空気を裂いて、インシオンがゆっくりとそちらを向いた。
「肝心な時にいなかったくせに、今度は邪魔ばかり!? あんた本当にうざったい!!」
 唾を飛ばしながら少年は怒鳴り散らし、破神殺しの剣を鞘から引き抜く。
「今度こそ絶対に消してやるよ!」
「奇遇だな」
 インシオンが不敵に口元を歪めながら、他の面子を制して進み出、鋼水晶の刃を解き放った。
「俺もそろそろ、今までのお返しを存分にしてやりたいところだったんだ」
 その瞳に一切の躊躇は無い。言った事を実行してやるという気概に満ちている。『黒の死神』の本領が戻ってきていた。
 透明な刃の剣が向かい合う。びょうびょうと冬の風が吹き荒れる中、二人は対峙したまま、張り詰めた時間が過ぎる。
 先に気合を吐いて均衡を崩したのはカナタだった。剣を振りかざして走り込み、地を蹴って跳躍、大上段から振り下ろす。インシオンは素早く頭上に剣を掲げて一撃を受け止め、甲高い音が山頂に響いた。
 カナタが舌打ちして着地し、素早く跳ねて鋭い突きを繰り出す。相手の急所を正確に狙った攻撃はしかし、インシオンが即座に身をひねる事であっさりかわされた。そのまま横薙ぎに転化しても、死神の身体をとらえる事はできない。カナタの剣に苛立ちが乗り動きがぶれるのが、エレの素人目に見てもわかった。対してインシオンの剣に迷いは無い。平然としたまま次々と斬撃を繰り出す。カナタが圧され、必死に受け流しながらも一歩、二歩と後退を余儀無くされる。
「ああ、もう!」
 焦燥に駆られたカナタが吐き捨て、膝蹴りを放った。怒りの塊はインシオンの脇腹をしたたかに打ち、彼の身体がよろめく。勝利を確信してにたりと笑い、カナタはインシオンの心臓目がけて飛び込む。
 だが。
 ごき、と鈍い音がしてのけぞったのは、カナタの方だった。いち早く立ち直ったインシオンの肘鉄が彼の顔面に叩き込まれたのだ。
「なん、で」
 鼻血を吹きながら、カナタが顔をしかめて唸る。
「教えてやろうか」
 無垢な子供が見たら確実に泣き出しそうなあくどい笑みを浮かべ、インシオンが言い放った。
「年期の違いだ、クソガキ」
 透明な刃が一閃。きん、と高い音を立てて、カナタの破神殺しの剣が根本から折れた。くるくる宙を回って地面に突き刺さる己の相棒を唖然と見つめる少年の頬に、更に拳一発。カナタは今度こそ吹っ飛んで、ごろごろ地面を転がる。決着がついたのは明白だった。
 インシオンはそれきりカナタに興味を失ったかのように視線を逸らし、ぎんとエレを睨みつける。彼は抜き身の剣を握ったままずかずかと歩いてくると、エレを頭から爪先までじっくりとねめまわした後、
「いいざまだな、え?」
 と唇を歪めて嫌味たっぷりの声を発した。怒っている。確実に心底から怒っている。そうひしひしとわかる声音だった。
「俺はずっと前に言ったよな、馬鹿が嫌いだって」
 いつどういう状況で言われたのか、今でも克明に思い出せる。あの時の彼の怒り顔は忘れたくても忘れられない。
「……ご」「勝手にはぐれるなって言ったよな」
 条件反射で謝ろうとしたエレの邪魔をするように、インシオンはたたみかける。
「ごめ」「はぐれたら動くなって言ったよな」
「ごめんなさ」「次にやったら足を斬り落とすって、脅しまでかけたよな」
 赤の瞳が氷点下に凍り、鋼水晶の剣が振り上げられる。エレは思わずぎゅっと目をつむって身を縮こめたが、破神殺しの刃がエレを傷つける事は無かった。高音を立てて砕かれたのは、四肢を拘束していた鎖だった。
 引っ張られていた力が急に消えてよろめくエレの身体を、頼もしい腕が抱き留めてくれる。
「……ったく、この馬鹿たれ」
 至近距離でインシオンが今にも泣きそうな笑い顔を見せる。それからきつくエレを抱き締めて、信じられないくらい優しい声が耳をくすぐった。
「お前が嫌だって言っても、もう二度と逃がさねえぞ」
 消しかけた想いが、心の中で再び勢い良く燃え上がる。いても良いのか、この人の腕の中に。涙を流れるに任せ、エレはしっかりとインシオンの背中に両腕を回してしがみついた。
「――何でだよ!!」
 怒りに満ち溢れた声が響き渡る。はっと振り向けば、雪の上にへたりこんだカナタが癇癪を起こしたように髪を振り乱し拳を振り回して叫んだ。
「結局そいつなの!? エレは僕やミライよりも、そいつが大事なんだ! 僕が一番エレの事を考えてるのに!」
「一番に想う事が、相手にとっても最良であるとは限らないという事ですよ」
 ソキウスが腕組みしたまま言い放つ。
「何が相手にとって良くて、何が迷惑か。そこまで考えられて初めて、相手を最も想っていると言い張れるのではないですか」
 まあ私もしませんが、と付け足して、「あなたらしい」とミライが苦笑した。控えめだったのは、不謹慎だとわかっているからだろう。
 ぎり、と歯ぎしりして、カナタが顔を伏せ拳を握りしめる。憤怒が過ぎるあまり、手が目に見えてぶるぶる震えていた。
「……もう、いいよ」
 やがてその口からこぼれたのは、恐ろしく低い声だった。
「全部壊すよ。この世界、全部。その後に僕とエレだけが残れば、ごちゃごちゃ言う奴も、僕からエレを取り上げようとする奴も、みいんないなくなる」
 のそりと立ち上がり、灰色の空を仰いで悠然と両手を広げると、言の葉の石を含んで、カナタは濁りあるアルテアを紡いだ。
『破神。未来から来なよ。この世界を破滅させればいい』
 途端、殊更強い風が山頂に吹き荒れた。黒い光――そういうものが存在するならば、そうとしか形容できない――が稲妻のように宙を走り、上空に亀裂が生じる。亀裂が大きくなって、その向こうの赤黒い空間から、まず、鋭い爪を持つ黒い手がのぞいた。やがて醜く変貌した顔、六対の翼、蜥蜴のような長い尾までもが空間を乗り超えてくる。
「……騎馬帝国皇帝の、破神……」
 ミライが唇をわななかせて呟く。それを嘲笑うかのごとく、山頂の空を覆い尽くすほど巨大な全貌を現した破神があぎとを開いて、腹の底まで叩く咆哮を放った。
「あっははははははは!!」
 破神を背にしながら、カナタが高らかな笑いを響かせた。
「最初からこうしとけば良かったんだよ! 全部こいつに壊させちゃえばさ!」
 アルテアによって良心の消えてゆくカナタは、もう自分のしている事の善悪も理屈も全て見境が無くなったのだろう。ゆらりとエレ達を指さして、「破神」と声をかける。
「手始めにこいつら全員やっちゃいなよ。ああでも、エレは殺しちゃ駄目だからね」
 呼応するように破神が吼えた。シャンメルが剣の柄に手をかけ、リリムが短弓を構える。ソキウスを守るようにミライが立ち、インシオンがエレを抱く腕に更なる力をこめた。
 しかしそこで予想外の事態が起きた。破神がぐわっと大口を開けたかと思うと、召還主であるカナタに迫ったのである。
「……え?」
 カナタが笑顔のまま硬直する。その身が口内に消え、破神がごくんとひと呑みする一部始終を、誰もが唖然として見ている事しか出来なかった。
 強い『神の力』の所有者を取り込んだ結果か。破神が耳をつんざくような奇声をあげて、更なる変貌を遂げる。四肢が異様に伸び、背の翼はもう一対増える。太く長くなった尾は宙に浮いていても地面を強く叩いて、その度に地面をえぐる。顔だけは獣というより人に近くなったが、ぞろり並んだ牙が決して人ではない、黒い巨体が、金色の眼球でぎろりと地上のエレ達を見下ろした。

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