8:最後のアルテア(3)

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「……あら?」
 イナトで最初にそれに気づいたのは、プリムラ姫だった。兄の愛したあずまやで、ヒカと向かい合い、アーキの淹れた茶を口にしている時。ふっと視界を横切った輝きに目を奪われたのだ。
「蝶ですの?」
 金色の蝶がふよふよと漂っている。今は冬だ。蝶が舞う季節ではない。それを思った直後、一人の人物の顔が脳裏に浮かんだ。赤銀の髪の、ヒカもプリムラも大好きな、彼女。
 姫がそこに思い至るのを待っていたかのように、蝶はふわりとはばたくと、ヒカの胸に吸い込まれ、金色の粒子を辺りにまき散らして消えた。途端、ヒカが口をおさえてぽろぽろと涙を零し始める。
「ヒカ!? どうしまして!?」
 プリムラはぎょっとして席を立つと婚約者に駆け寄った。何か不調でも来したのだろうか。
 しかしヒカは片手を掲げて「大丈夫」と示すと、泣きながら小さく呟いた。
「エレ……」
 プリムラは空を仰ぐ。金色の蝶は群れを成し、遙か上空を渡って行った。

 カナタの襲撃により、アルセイルでほぼ無事に燃え残ったのは王宮だけだった。生き残った人々が身を寄せ、まだ時折ある破獣の襲撃に怯えながら十数日を過ごしている。
 シュリアンは深傷を負ったアーヘルに付き添い、ほとんど眠る事もしないまま夫の容体を見守り続けた。化粧も出来る状態ではなかった為、素面の目の下にはくまが浮き、凄絶な様相を呈している。しかしそれでも尚、彼女の生来の美しさが失われる事は無かった。
「アーヘル」
 ずっと虚ろな意識のままの少年王の名を静かに呼び、そっと手を取る。
「春になったら、大陸へ行きましょうか」
 返事は無い。だが、語りかけ続けるのが魂を現世に繋ぐ強い力だと医師に言われ、ずっとそうして話しかけていた。
「イシャナの春はどのようなのかしら。エレに案内してもらいたいわね。王族なんてしがらみの関係無しに、純粋に大陸を楽しんでみたいわ」
 叶う確率の低い夢語り。自嘲すれば勝手に涙が零れる。夫の手を頬に当て、その手がまだ温かい事を確かめた時。
「奥方様!」
 青い衣をまとった侍女がせききった様子で部屋に駆け込んできた。
「あれを!」
 彼女が目を真ん丸くして窓の外を指差す。アーヘルから離れて窓際へ近寄り、シュリアンも目をみはった。
 金色の蝶だった。物凄い数が上空を舞っている。それが次々と地上に向けて降り立ってゆくと、この十数日遠くに聞こえていた破獣の咆哮が次第に消えてゆくのがわかった。
 まさか、の思いが脳裏を巡る。そんなシュリアンの脇を金色の蝶は一匹すり抜けて、床に伏したままのアーヘルへ近づくと、金色の粒子を残して彼の身体に吸い込まれ消えた。
 すると、変化が起きた。それまでここにあらぬ場所を映していた黒の瞳が急速に焦点を合わせ、現実に立ち返った王は、ゆっくりと身を起こしたのである。
「……シュリアン?」
 愛おしい声が名を呼ぶ。自分でも信じられないとばかりにアーヘルは己の胸に手を当て、巻かれていた包帯を取った。カナタに食らった傷が、跡形無く消えている。
「……アーヘル」
 折角乾きかけた目が再び潤む。シュリアンはまっすぐに夫の胸へ飛び込み、アーヘルもしっかりと妻を抱き締める。
 アルセイルが、千年の呪いから解き放たれた瞬間だった。

 金色の蝶は波間を渡り、遙か海の底までをも目指した。
 蒼に包まれた海底の世界に、雪のようにゆっくりと降りてきた金色の輝きに、氷女ひめ王グレイシアははじめ眉をひそめた。
 しかし彼女の思惑を置き去りにして蝶は羽ばたくと、次々と都へ散り、海破獣マール・カイダの身に吸い込まれてゆく。
 すると、海破獣達がわずかに呻いたのも束の間、その姿が次第に、グレイシアと同じ、上は人、下は鱗に覆われた鰭を持つ足の、海底人に戻っていったのである。
 今目の前で繰り広げられている事態が信じられずに立ち尽くすグレイシアの前に、彼女とよく似た面差しを持った人々が、同じように驚きにとらわれた表情でやってくる。
「……父上。母上」
「グレイシア」
 父と呼ばれた男性が両腕を広げる。グレイシアが目に涙をためながら抱きつくと、父も娘の身体を強く抱きすくめた。
 金色の蝶は、天井からの細工と共に、高く低く、海底の都が蘇った喜びの歌を奏でる。その蝶の主を思い、そして、あの娘の名前を聞き忘れたな、と、グレイシアは考えるのだった。

 自分の放った金色の蝶が、破神の血に翻弄された人々の呪いを解いてゆくのを、エレは金色の世界に漂いながらも知覚した。実際に目にした訳ではない。しかし、人々の戸惑いの声が歓喜の声に変わってゆく様は、何故か明確に耳に届いた。
 瞑目すれば、赤い瞳がまぶたの裏に浮かぶ。胸を締め付けるほどの愛おしさが苦しくて、目の奥が熱くなった時。
「エレ」
 いたわるように穏やかな声と共に、ぱしりとエレの手をつかみ留める感触があって、エレは潤んだ瞳をゆっくりと開いた。
 会った事の無い同年代の女性だった。氷色の艶やかな長い髪が波打ち、瞳は琥珀のごとくに輝いている。その容姿を持つ人物の名をかつてセァクの巫女姫時代に聞いた事があって、エレは目をしばたたいた。
「……ライ・ジュ皇女様?」
 呆然としたエレの問いかけに応じるように、女性はにこりと笑みをほころばせる。それが答えだ。
「よく頑張りましたね」
 エレの手を引きながら、ライ・ジュが親しげに目を細めた。
「でも、私はライ・ジュ様の課したアルテアの制約を破りました」
 永遠に終わらない罰を受けても仕方無い事をしでかしたのに、まさか制約を課した本人からねぎらいの言葉をかけられるとは思わなかった。エレが萎縮すると、ライ・ジュはゆっくりと首を横に振り、エレの頬にすっと細い指を当てた。
「破神を完全に滅ぼすには、破神タドミールという濁りあるアルテアを口にしなくてはならない。その代償があまりにも大きすぎる為、私は敢えて濁りあるアルテアを、禁忌として封印しました。いつか誰かが、破神とアルテアを巡る矛盾に気づいてくれる事を願って」
 でも、と氷色のまつげが物憂げに伏せられる。
「歴代のアルテア使いの誰もが、私自身さえ、反動に訪れる死や狂気を恐れて濁りあるアルテアを口にしなかった。その恐怖をあなたは乗り越えた」
 再び瞳がしっかりと開かれ、エレを見つめる。
「あなたは破神の血から世界を解放したのです」
 そうか、とエレは納得した。自分の選択は誤っていなかった。ライ・ジュが期待した最良の道を選び取ったのだ。
 千年に渡る破神の呪いが終わったのだ。これから世界は、破神や破獣に怯える事も、『神の力』に振り回される事も無く、ゆるやかに歴史を紡いでゆくだろう。それを見届ける事が叶わなそうなのが心残りだが。
 しかし。
「エレ」
 ライ・ジュが幼い娘のように可愛らしく小首を傾げて訊ねてきた。
「あなたはまだ、生きたい?」
 強く鐘を叩くようにその言葉が胸に響く。あの人と共に、破神から解放された世界を見たい。手を繋いで、微笑み合って、どこまでも続く道を、一緒に。
(生きたい)
 答えの代わりに口から出てきたのは嗚咽だった。言葉にしたくてもかなわず、エレはまだ喋れない子供みたいに泣きじゃくる。
 しかしそれで、ライ・ジュは察したようだ。
「エレ。私の血の祖先。魂の子孫。意志の力を貫いた巫女」
 指先をかみ、浮いて来た血を紅に見立てて唇を彩り、彼女は宣誓した。
「私から、世界で最後のアルテアを送りましょう」
『あなたとあなたの愛する人達の未来の彼方に、幸いあれ』
 金色の光が奔流となってエレを包む。ライ・ジュが「ありがとう」と微笑みかける姿も、あっという間に薄まってゆくのだった。

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