5:碧眼の魔女

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 薄暗い路地に一人で立っている。
 ああ、またこの夢だな、とスウェンは自覚した。この夢だけは、何度見ても夢だと知覚できる。それほどまでに繰り返された悪夢だ。
 裏通りを照らす街灯など無く、月の光だけがこの光景をやけに青ざめた世界に見せる。すえたにおいが鼻をつく中、残飯を求めてふらふらと彷徨う、痩せ細った黒い野良犬。下水道から迷い出てくるどぶねずみ。いつも変わらない光景の中を、よろめくような足取りで進んでゆく。
 この角を曲がれば何があるか、知っている。見たくない。それでもそう思う心とは裏腹に足は勝手に進む。
 鼻腔に滑り込んでくる、金属が錆びて朽ちてゆくようなにおい。吐き気をもよおす死の気配。
 それは裏通りの行き止まりにあった。だらりと四肢を投げ出し、ごみ捨て場のごみにまみれてぐったりとうなだれている。
 割れた酒瓶の硝子があたりに散らばって、青白い月光を反射して場違いにもきらきら美しく輝く。そんな光に包まれて、それは死んでいた。だらしなく口を開けて馬鹿にしているかのように舌を出し、白目をむいて、頭から血を流し、心の臓の位置に短剣を突き立てられ、地面を赤黒く染めている。
 涙は出ない。恐怖も感じない。こみあげるのは、ただ安堵。
 やっといなくなってくれた。やっと自分達兄妹を苦しめる存在が消えてくれた。
 それでも。胸を締めつける感情がある。
 それでもリエーテは泣くだろう。家族が、自分を知る人間が一人減ったと、嘆き悲しむだろう。
 それこそがスウェンにとっての悪夢だと知らずに。

 眩しい。
 自分の所在がわからずに、スウェンはしばらく夢と現実の狭間に意識を遊ばせる。ゆるゆると段階的に、覚醒は訪れた。
 そうだ。ここは城下にある兵士の訓練場。そこで自主訓練をして、一休みと屋根の下で横になったまま、眠りに落ちていたらしい。太陽の位置が移って日陰も移動してしまったので、寝そべっていた腰掛けはすっかり陽の光に照らされていた。
 大半の兵は、イナト城敷地内に新設された訓練場で演習を行うようになった。百年以上の歴史を持つ、金属の屋根が腐蝕し、煉瓦の壁が崩れかけ、柱も白蟻に食われて老朽化した、古臭い訓練場を使うもの好きはまずいない。それを良い事に、スウェンはこちらで心置きなく一人鍛錬を積み、好きな時に休眠を取っていた。
 しかし、久しぶりにあの夢を見た。いや、あれは夢などではない。過去にあった現実の光景だ。戦いばかりの日々の中で忘れかけていた、忘れたかった、もう十数年も前の現実だ。
 父が死んで、スウェンは心から安堵した。だが、リエーテは泣いた。この世で自分を知る数少ない人間がいなくなった事を、心の底から嘆いていた。あれだけ暴虐の限りを尽くしたろくでなしの喪失から立ち直って笑顔を見せるまでに、一年の時を要した。
 今でこそ、兄が嫌がると理解していて口に出す事は無くなったが、しばらくは、
『お父さんとお母さんがきちんといれば、兄さんに迷惑をかけずに済んだのにね』
 と、自虐的に微笑む日々が続き、いなくなって尚妹の心をさいなむのかと、もう殴る事もできない両親に憎悪の炎を燃やした事もある。その苛立ちが、戦場で容赦なく敵を屠る原動力になっていた時期もあった。
 だがスウェンもいい大人だ。己の感情を抑える手段を得る事はできた。普段は過去の嫌な思い出を心の底に押し込め、無感動な人間として生きる術を身につけた。
 それでも時折こうして、治りかけたかさぶたを無理矢理はがしてまた血が溢れるかのように、過去が悪夢となって追いかけてくる事がある。嘆息して、寝汗をかいた顔を拭こうとタオルを押し当てた時。
 視界の端にちらついた小柄な人影に、タオルをずり下ろして、目線をそちらにやった。
 逆光で顔は見えないが、陽光に蒼くすら照らし出される長い黒髪は、見覚えがある。しかし何故、彼女がこんな所に。驚きを覚えて硬直する間に、彼女は訓練場の金網製の扉を開け立ち入ると、迷う事無くスウェンのもとへ歩み寄ってきた。
「ここは一応、軍の人間以外立ち入り禁止だ」
「知っています」
 身を起こし、じとりと紫の瞳で睨むと、碧の瞳を涼やかに細めて、凛とした声が返ってくる。
「知ってるならさっさと出てけ。家に帰れ」
「ここに来るまでに乗せていただいた馬車の主に、手持ちを全て差し上げてしまいました」
 スウェンはこめかみをおさえて舌打ちした。それは差し上げたとは言わない。体よく巻き上げられたのだ。アイドゥールの夜道を出歩いていた事もそうだが、この少女――エニミは筋金入りの世間知らずなお嬢様のようだ。政治的な切り札に使うはずの娘がこんなに間抜けで、ドノヴァン侯も苦労しているのではないだろうか。これでは、蛮族に嫁げない身体にされているなどという屈辱的な噂話も、あながちただの噂ではないかもしれないという考えすら浮かんでくる。
「大体お前、何しにここに来た」
 アイドゥールで助けた事で、余計な感情を持たれて追いかけてきたのなら、スウェンにとっては迷惑千万だ。ろくでもない恋慕を口にするようなら、金を持たせて早々に追い払おう。そう思っていた心が、エニミが真顔で次に告げた言葉に、激しく揺さぶられた。
「私が見た未来を、現実にする為に」
「……んあ?」
 眉間に皺を寄せてスウェンは唸るような声をあげてしまった。そんな反応も想定内だったのだろうか。エニミはスウェンの隣に腰掛けて、淡々と続ける。
「あなたの血を継ぐ人間の内、一人はイシャナの王になり、一人は英雄となります」
 最早言葉を失うしか無かった。妄想にもほどがある。スウェンは下層出身の一般兵だ。その子孫が王位を手にするなどという話は荒唐無稽だと、算盤を弾き始めたばかりの子供でもわかる。ましてや英雄など、どこの御伽話だ。
 笑い飛ばそうとしたが、碧の瞳は、自分は嘘などついていないという自信に満ち溢れた光を帯びて、まっすぐにスウェンを見つめている。この瞳に真正面からとらえられると、逃れられない。引き込まれる。意識が彼方へ連れ去られそうになる。
「……魔女の予言か?」
 視線を引きはがすのは至難の技だったが、なんとかそっぽを向き、その台詞を皮肉じみて吐き出す。『魔女』呼ばわりをされて気分の良い人間などいないだろう。頬に張り手を食らわせて立ち去ってくれるなら、それで充分だった。
 しかし。
「そうだ、と言ったらあなたは信じてくださいますか」
 エニミは怒りも泣きもしなかった。凪いだ海のように平然と、質問に質問で返してきたのである。
「私には幼い頃から、少し先の時間を夢に見る能力がありました。小さい頃は子供の戯言と笑われましたが、戦の行方や人の生死が、何度も私の言う通りになると、周りの目も変わりました。母がセァク皇族の遠い親戚なので、破神タドミールの血が影響を与えたのだろうと言われました」
 スウェンはぽかんと口を開けて呆けるしかなかった。破神。それは伝説の中の怪物の名前だ。突如世界に現れ大陸を焼き尽くし、その後に初代皇帝セイ・ギが、絶望にとらわれた人々を救ってセァク帝国の祖となった。神代の英雄譚だ。
 破神の血はセァク皇族を初めとして、大陸の人々の間に潜んでいる、とも言われている。ごくまれにその血が強く発現した者は、凡人には持てない特殊能力を得るという話は、スウェンも聞いた事があるが、眉唾物だと思っていた。だが、目の前の少女は、それがただの作り話ではないと、真実なのだと、自信を持って言い切るのだ。
「父は私のこの能力を、次代に継がせられないかと考えました。そして私が子を産める身体になった時、母の一族の男性をあてがいました」
 スウェンはみたび告ぐ言葉を見失った。この少女が嫁げない身体になっているという噂は、本当にただの噂ではなかったのだ。しかもそれが、実の父親の策略によって行われた事だという告白を、自分は今聞いている。
 ドノヴァン候の顔を思い出そうとする。しかし、兵達を激励する文官の口上など上の空で真面目に聞いていなかった弊害か、その顔を脳裏に思い描く事はかなわなかった。イシャナ国内での高い地位を狙う男にとって、実の娘の扱いなど、駒になる兵を鼓舞するのと同等の、出世の手段に過ぎないのか。
「産まれた子が男か女かも、私は知りません」
 スウェンの驚愕を置き去りにするかのように、エニミの話は無感情に続く。
「産まれたそのまま取り上げられて、男性の実家で育てられているという事以外、何も知らされていません。名前をつける事さえできませんでした。五年経ちますが、何か特殊な能力を発現したという話も入ってきませんから」
 つまりドノヴァン候は、娘の能力を孫に受け継がせる事に失敗した、という訳か。役に立たなかった子供は最悪、始末された可能性もある。それを目の前の少女は、知る事さえかなわないのだ。
 ろくでもない父親、という点では、自分とこの少女は似た者同士なのかもしれない。そう思うと、彼女に対して初めて親近感が湧いた。しかし彼女は、同情や共感など求めてはいないだろう。慰めの言葉の代わりに、質問を投げかける。
「しかしお前、一人娘だろ。嫁にやれない娘を抱えて、お前の親父に先の展望はあるのか」
「その点については、もう解決しています」
 不躾な問いかけに今度こそ顔を赤くして怒るかと思ったが、エニミは涼しい表情を保ったまま答えた。
「子を作ると決まった時既に、宰相の長男が私を引き受けてくださる話がついていました。来月、私は嫁ぎます」
「……そりゃまた……急だな」
 鈍器で殴られたような衝撃の後にようよう紡ぎ出せたのは、そんな台詞だけだった。とっくに定まっていた話なのだから、急でも何でもない。だのに何故こんなに動揺するのか、自分でもよくわからない。頭の中でぐるぐると混乱が渦を巻いているようだ。
 イシャナ宰相の息子相手という事は、将来的に産まれた子が女なら、現王の跡継ぎに嫁がせる事を見越しているだろう。ドノヴァン候の野心は潰えた訳ではない。むしろ順調に出世の階段を昇っているのだ。
 だが、それを考えると、心の奥底で燃える熾火がある。その理由を必死になって探っている間に、
「その前に、あなたに会っておきたいと思いました」
 碧の瞳がまっすぐにスウェンを見つめてきた。乾いていたその瞳が、初めて感情を宿して潤んでいる。それが思慕である事に気づくのに、時間は要らなかった。何度も女達から向けられた目だ。だが今、その瞳で見すえられて、いつものようにそっけなくはねのけようという思いは浮かばなかった。
「物心ついた時から、私の夢に見る未来にあなたがいました。いつも戦場にいて、血に塗れて戦うあなたから目が離せませんでした」
 引き込まれるように。吸い込まれるように。目を離せなくなる。
「色々と思いを馳せました。どんな人なのか。どんな人生を送っているのか。どんな声をしているのか。会えたらどんな話をしてくれるのか」
 ふっと。
 初めて口元をゆるめて、彼女は寂しそうに微笑った。
「おかしいでしょう? 会った事も無い夢の中の人に、ずっと恋い焦がれていたなんて」
 いつもなら、おかしいと一刀両断していただろう。俺に関わるなと、突き放していただろう。だがそれができなかった。
 理由を探って、心の底でようやっと答えをつかむ。
 惹かれていたのだ。自分も。アイドゥールで出会って視線を交わしたあの時既に、魔女に魅入られるように、この少女に心を奪われていたのだ。
 言葉で答える代わりに、剣だこだらけの武骨な手を伸ばし、黒髪に指を絡める。少女は抗う事無く身を委ねてくる。
 抱き寄せた身体も、重ねた唇も。ひどく柔らかく頼りなくて、まるで今にも壊れそうな人形のように思えた。

 日が暮れる頃、スウェンは信用できる人間に金を握らせ、馬車にエニミを乗せた。ドノヴァン候の屋敷まで間違いなく届けてくれるだろう。
 窓越しに碧の瞳がスウェンをじっと見つめている。スウェンも視線を逸らす事無く見つめ返す。
 車輪が回り出して馬車が通りを行く。彼女の姿が見えなくなる。それでもスウェンは、いつまでも立ち尽くしたまま、脳裏に焼き付いた碧の瞳を思い返していた。
 もう二度と、彼女と会う事は無いだろう。理性はそれを認めていた。
 そして感情は、もう二度と、女をこの腕に抱く事は無いだろう、と予感していた。

 ドノヴァン候の一人娘が宰相の息子に嫁いだ話は、盛大に開かれた祝宴の様子と共に、一般兵達の耳にも入ってきた。
『魔女の嫁ぎ先が見つかったか』
 噂好きの下世話な連中が休憩中の笑い種にしているのを、スウェンは離れた位置から冷めた表情で聞いていた。
 もっとも、それも結婚当時だけで、『碧眼の魔女』の話題は次第に人の口にのぼらなくなった。
 約一年後。
 彼女が同じ髪と瞳の色の娘を産みはかなくなった、という話は、ひっそりと耳をかすめて流れ去っていった。

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