10:去りゆく光

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「きゃあああ! 泥棒! 泥棒!!」
 十歳になった息子を連れて買い物に出、大通りを歩いていると、悲鳴がスェウンの耳を刺した。声の方を向けば、突き飛ばされたのか、買い物籠から野菜や果物を道にばらまいて倒れ込みながら叫んでいる女性がいる。その視線の先を追えば、何事かと唖然とする人々を押し退けながら財布を握り締めて駆けてゆく男の背中が見えた。
 ひったくりはイナト城下の真っ昼間でも起きる。相手は手慣れた者のようだ。あらかじめ逃走経路を確保できる場所で標的を狙っていたのだ。だが、スウェンの足ならば容易に追いついて打ちのめす事ができるだろう。走り出そうとして、しかし、隣を追い越してゆく小さな影に目を奪われた。
 息子が赤い瞳をすっと細めて走り出していた。獲物を追う狩猟者の顔をした少年は、手近にあった木箱を足掛かりにして身軽に跳ねると、金物屋の看板を蹴って屋根に飛び乗り、信じられないような速度で屋根から屋根へと身軽に伝ってゆく。凡人が登れない場所にも足をかける隙がある事は教えていたが、息子はいつの間にか、教えられた以上のものを身につけていたのだ。
 はっと我に返って、スウェンも走り出す。地上から追いかければ、屋根の上を行く息子と挟み撃ちにできるはずだ。追われている事に気づいたひったくり犯はちらとこちらを振り返り、何事か悪態をついて脇道に逸れた。
 しかしひったくり犯はそこでぎょっとして足を止める事になる。裏通りに入った途端、頭上から少年が降ってきたのだ。逃走中の人間でなくとも仰天するだろう。
「ガ、ガキが! びびらせやがって!」
 男は狼狽えながらも腰に帯びていた短剣を抜いて、少年に斬りかかった。スウェンは武器を奪おうと背後から迫る。だが、そこでも息子は恐るべき潜在能力を見せた。空中で壁を蹴って方向転換し、振り回された短剣を容易くかわすと、地面に足をつくが速いかばねのように飛び跳ねて、敵の手から得物を蹴り上げる。自分より遙かに背の低い相手に後れを取った事に唖然とする犯罪者の顔目がけて、肘鉄一撃。顎骨の砕ける音がして、ひったくり犯は泡を吹きながらその場に崩れ落ちる。スウェンが加勢するまでも無い、瞬く間の出来事だった。
 息子は解き放たれた猛獣のようにぎらぎらした炎を赤い瞳に燃やして、肩で息をしながら気絶した相手を見下ろしていた。が、不意に、地面に落ちた短剣を拾い上げると、男目がけて振りかざしたのである。
「何してる、馬鹿たれ!」
 さすがにこれにはスウェンも度肝を抜かれ、慌てて止めに入った。
「何で止めるんだよ!」
 短剣を握った腕をがっしりと抑え込まれた息子は、ぎんとこちらを睨みつける。
「こんな事する奴はろくでもない。また同じ事するんだ。殺したって誰の損にもならないだろ!」
「――それでもだ」
 激昂する息子とは対照的に、スェウンは努めて落ち着いた低い声色で、言い聞かせるようにたしなめつつ短剣を取り上げる。
「ここは戦場じゃねえ。無条件に人の命を奪っていい場所じゃない。罪を裁く人間は別にいる」
 幼い頃の自分と同じ顔を険しくして、少年は不服そうにまっすぐ睨み上げてくる。その視線を真正面から受け止めて、スウェンは静かに息子を諭す。
「いいか。人を殺めれば、いつかは自分に返ってくる。こいつはお前の手で充分痛い目に遭ったろ。これ以上お前が手を下せば、こいつの親か、兄弟か、子供か、恋人か、とにかくこいつの関係者が悲しんで、お前を恨んで復讐に来てもおかしくない。その時に、自分は悪くないなんて言い訳はきかなくなる」
 戦場で数多の生命を奪ってきた『紅の鬼神』とは思えない言葉だった。『英雄になる』というエニミの予言が確かなら、この子はいつか、戦場で人を殺す事もあるのだろう。だが、息子がこんなところで余計な罪を背負い恨みを買って、殺されるような事があってはならないと思った。十年の歳月は、血縁以上の思い入れをこの息子にするに充分な時の流れだったのだ。
 少年は得物を失った手をのろのろ下ろし、苛立たしげに爪を噛む。機嫌が悪くなると出る癖だ。何度か諫めたのだが治らなかった。
 憲兵が追いついてくるがしゃがしゃという鎧ずれの音を、スウェンはどこか別の場所の出来事のように遠く聴いていた。

 王城からの遣いが来たのは、その晩だった。息子の立ち回りの一部始終は既に憲兵を通して伝わっていたらしい。
「国王陛下のお召しだ」
 十年前、スウェンに赤ん坊の息子を押し付けていった将官は随分とでっぷりして、更に勲章の数を増やした制服を着て、更に居丈高な態度でスウェンを見すえながら口を開いた。
「返してもらう。お前はその子供を充分に育てた」
 何も事情を知らない息子は、こちらの背中に隠れて服の裾をぐっとつかみながら、不安げな顔で、スウェンと将官を交互に見ている。
「明日、正式な迎えを寄越す。それまでに準備を済ませておけ」
 来るべきものが来た。スウェンは深々と息を吐き、低頭するしか無かった。
 将官は少年にぴったりな大きさのイシャナ兵の制服を残していった。それをテーブルの上に置き、差し向いに座って、ホットミルクを出してやると、スウェンは息子に全てを語った。
 イシャナ王族の因襲。秘された王子。退役軍人が一人で子供を育てた意味。己の出生を聞く間、息子は一言も口を挟まず、相槌を打つ事も無く、冷めてゆくミルクに手もつけず、膝の上でぎゅっと拳を握りしめてうつむいていた。
 スウェンが一通りを語り終えて言葉を切ると、沈黙が落ちる。耐えがたい静寂が流れて、こんな時に子供を慰める言葉のひとつも知らない己の武骨さを悔やんだ時。
「……あんたが」
 息子が細い声で口を開いた。
「あんたがおれを育てたのは、命令だったから?」
 そうだ、と答えてしまえばひどく楽になっただろう。お前の面倒見なんぞまっぴらごめんだった、早く本当の親のもとへ戻って、自分の事など忘れてしまえ、と突き放してしまえば、この後の人生を気楽に生きられただろう。だが、この十年積み重ねた少年との日々は、『紅の鬼神』に、戦意と殺意以外の感情を芽生えさせるに充分な時間だった。
「最初はそうだった」
 腕組みして紫の瞳で見すえると、赤の瞳が不安げにこちらを向いた。この顔をされると、憂慮を取り払ってやりたいと思うようになったのは、いつからだったか。
「でも今はな、お前は俺の大事な息子だと思ってる」
 血縁などどうでもいい。インは虚ろな人生に光を与えてくれた。それが全てだ。
 息子は下を向き、口をへの字に曲げて泣き出すのを我慢しているように見えた。が、やがて。
「……からな」
「あん?」
 聴き取れなくてスウェンが片眉を跳ね上げると、絞り出すように息子は言った。
「あんたが誰かに殺されたら、おれは仕返しに行くからな。あんたが駄目だって言っても、絶対聞かないからな」
 ようやっと前を向いた息子の顔は、涙でぐしゃぐしゃで、鼻水も垂れている。しかしそれを笑う気にはなれなかった。どんな感謝よりもまっすぐな感情の言の葉は、スウェンの胸を強く打った。
 席を立ち、自分より背の低い身体を抱き締める。爆発するように息子が泣いて、がっしりとしがみついてくる。
 小さくて、柔らかくて、温かかった身体は、随分と大きく逞しくなった。これ以上成長する姿を、英雄になる様を、もう身近では見届けられない。その事実が、ぎざぎざの刃のように心を鋭く突き刺した。

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