4:『神の血』の味

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「距離を取れ! 剣を抜くのはそれからでいい!」
 いつに無く真剣な声色で叫ぶもう一人の自分に、しかしカナタは応える事ができずに立ち尽くしてしまった。
 話にしか聞いた事の無かった破獣カイダ。伝説の異形が今、自分の眼前にいる。しかも、最前まで人間だった者が変貌したのだ。驚愕は全身を硬直させ、武器を握り締めた手はがちがちになって、抜剣する事もできない。
 大きいカナタが舌打ちして、強い力でカナタを突き飛ばすと、破獣に向けて剣を振るった。破獣はばさりと翼をはためかせると、青年の必死さを嘲笑うかのように、太陽が沈んで暗くなった空を舞う。
 突き飛ばされたカナタは尻餅をついたが、その衝撃でようやく身体が言う事を聞き始めた。あおのけに倒れていきそうだった上体を起こし、草地を蹴って飛び跳ねるように立ち上がる。ぐっと剣の柄をつかんで、鋼鉄の輝きを解き放ち、カナタは頭上を飛び回る破獣を、翠眼でぎんと睨みつけた。
 破獣は地上のこちらを馬鹿にするかのように耳障りな声をあげると、急降下してきた。鋭い爪が月光に照らされてぎらりと光る。熱を持った息が吐き出される気配まで伝わってくる。
 だが、その爪がカナタを引き裂く前に、大きいカナタが二者の間に割って入った。ランプを破獣に投げつけ、がしゃんと砕けて小さな火が皮膚を焦がす。敵が唸り声を洩らして動きが止まったところに、青年は大きく踏み込んで剣を振るった。
 しかし破獣も、元の人間がそれなりに訓練を積んだ正規兵だからだろうか。身をひねってすれすれで刃をかわすと、再び宙に舞い上がり、カナタ目がけて飛んでくる。あくまで弱い方から潰そうという魂胆か。大きいカナタより弱い、とみなされている事に、苛立ちが募った。
 足を開いて地面をしっかりと踏みしめ、剣を青眼に構えて、まっすぐに突っ込んでくる敵を待ち受ける。
 大丈夫だ、やれる。自分は『黒の死神』の息子なのだから。いつもは鬱陶しく感じる父の二つ名を今は大義名分に掲げて、カナタは迫りくる破獣に向かって駆け込んだ。
「馬鹿、突っ込むな!」
 もう一人の自分の叱咤も聞かずに、剣を横様に薙ぐ。しかし、破獣は刃が触れる直前でひらりと舞い、剣は空を切った。
 渾身の一撃をかわされて、驚きに一瞬身が固まってしまう。敵がその隙を逃すはずが無かった。
 破獣が再び迫り。
 ざくり、と。
 凶悪な爪が深々と肉を引き裂いてゆく不吉な音を、カナタは他人事のように遠くで聞いた気がした。
 直後に焼け付くような痛みが首筋に襲い来る。以前、短剣を肩に食らった時の比ではない。熱を帯びた液体がしぶくように自分の身体から飛び出してゆくのを感じる。膝の力が抜ける。手が震え剣を握っていられなくて、がしゃんと地に落ちる。その後を追うように、カナタ自身の身体も地面に倒れ伏していた。
「――カナタ!」
 もう一人の自分の切羽詰まった声が遠い。視界がぶれて、思考が定まらない。横様になった視界で、大きいカナタが破獣に斬りかかって自分から距離を取らせるのが、曇り硝子一枚を挟んで別世界の事のようにかすんで、よく見えない。
 代わりに、ひたひたと、暗い死の気配が自分をとらえようと近づいてくる足音が、形になって見えるようだった。
 死ぬのか。めちゃくちゃになっていた頭の中で、その考えがふっと脳裏を横切った。
 自分も戦えると出しゃばって、その結果、無様に負けて命を落とすのだろうか。
 息子が戦いに身を置く事をいつも心配していた母は、ひどく嘆くだろう。父は、行かせるべきではなかったと後悔に襲われて責任を感じるに違いない。双子の姉や弟妹達も、さすがに泣いてくれるか。
 そして、ユーリル。
 また会おうと言ったのに、約束を果たせない。星を宿したあの黒い瞳を潤ませて、涙のひとつは流してくれるだろうか。
 そんな考えも大地を赤く染める血のようにこの身から流れ出して、遠ざかってゆく気がする。本物の死を告げる神が手招きしているのが見えそうだ。このまま意識を手放せば楽になれるかと、目を閉じかけた時。
 虚ろな視界に、虹色の光が生じた。暗くなった辺り一体を照らし出すほどのまばゆさに、破獣がたじろいで後ずさり、大きいカナタが思わず足を止め振り返る。深淵に沈もうとしていたカナタも、目を見開いてその光に引き込まれた。
 やがて白みを帯びた色に変わってゆく光の中に、小さな人影が見えた。光が少しずつおさまるにつれ、人型の全貌もあらわになる。その姿を見て、大きいカナタが驚愕を顔に張り付けて、何事かを呟くのが見えた。
 女の子供だった。身長はカナタの胸あたりまでしか無いだろう。だが、もう一人の自分が吃驚したのはそれが理由ではない事はわかる。
 夜風に翻る、ふたつに結わいた長い赤銀の髪。カナタ達と同じ翠眼。女にしては太めの眉。その少女は、カナタの母エレを小さくしたらきっとこうだろう、という想像そのままの姿をしていたのである。
 若草色の瞳がふっとこちらを向く。唇がカナタの名を呟いたのがわかる。何故自分の名前を知っているのか。答えのもらえない疑念がぐるぐると脳裏を巡る間に、少女はしっかりとした足取りでこちらへ向かってくると、カナタの傍らに膝をついた。
「……ごめんなさい」
 激しい耳鳴りの中、その小さな声がたしかに耳朶を打った。
 少女は悲しげに目を細めると、短刀を取り出して自分の手首を切り裂く。そして、溢れ出した赤い流れを自分の口に含むと、おずおずと躊躇いつつもカナタに顔を近づけ、そして、口づけた。
 血の味は鉄錆だ、と思っていた。だが今、自分の口の中に流れ込む血潮は、酒を飲んだ事の無いカナタでも酩酊を覚えそうなほどに、ひどく甘い。
 えも言われぬその味をごくりと嚥下する。途端、心の臓が熱を帯び、感覚の消えかけた指先から爪先、頭のてっぺんまで、力が満ちてゆくのを感じた。
 少女が唇を離して、座り込んだままこちらを見守る。その傍らで、カナタは両手をついてゆるりと起き上がった。
 首の痛みはもう感じない。それどころか、致死量と思われた出血が止まって、傷さえ無くなっているのを自覚する。口元に残る少女の血を舌でなめ取った直後、それは起きた。
 びしりと音を立てて、自分の身体が変貌してゆくのを感じる。視界に映る両手が黒い皮膚に覆われ鋭い爪を有してゆく。背中に翼が生える感触がわかる。もう一人の自分が驚愕に目を見開いて立ち尽くしている。
 ゆらり、と。
 立ち上がったカナタは、もう人の姿をしていなかった。黒いたてがみと翠の眼球が普通のそれとは異なる、破獣が、天を仰いで咆哮を迸らせると、ばさりと翼をはためかせ、敵の破獣へと突っ込んでいった。
 突然現れた自分以外の破獣の存在に、敵はたじろいだようだった。『基本的に破獣に人の意思は残らない。「獣」って言うくらいだからね』と大きいカナタは言っていたが、今のカナタには、自分が人ならざる力を手に入れて、それを振るっている自覚がある。相手に理性の欠片が残っていたとしても驚きはしなかった。
 人間の脚力など軽く凌駕する速度で敵に接近し、腕を振り下ろす。がつ、と固い手応えと共に、破獣の牙が折れて飛び、相手がのけぞった。
 体勢を立て直すなど、そんな暇は与えない。両肩に爪を食い込ませ、お返しとばかりに首筋に噛みついて、ごっそりと肉を食いちぎる。
 口の中に満ちる血の味がひどく美味い。もぎ取った肉を咀嚼し、飲み下す。敵の破獣はおぼつかない足取りでよろめきながらも、カナタを振り払い、空に舞い上がって、ほうほうの体で逃れようとする。
 逃がす気は無い。そう願うだけで身体は意志を容易く受け入れる。背の翼をはためかせて軽く地を蹴れば、ふわりと身が浮き上がり、破獣を追って空を舞う。翼は強く風を切り、あっという間に彼我の距離を詰めた。
 腕を伸ばして相手の翼をわしづかみにし、勢いよく引く。めりめりと音を立てて翼はちぎれ、赤黒い血が溢れ出して、破獣は悲鳴にも近い唸り声をあげた。そのまま鋭い爪を背中に突き立てる。ずぶりと爪が敵の肉体に沈み込み、心臓をえぐり出した。
 絶叫が辺り一体に響きわたる。だがそれも束の間の事で、破獣は唐突に声を途切れさせると、黒い粒子と化して宵闇に溶けてゆく。後にはねっとりとした血が地面に染みてゆくばかりで、それ以外に破獣が存在した証拠を残さなかった。
 地面に降り立ったカナタの手の中の心臓も、黒い砂となって、血に染まった手の中からこぼれ落ちてゆく。勝ったのだ、と認識した瞬間、カナタの身体は再び変貌を始めた。破獣の姿が揺らぎ、次第次第に人としての形を取り戻してゆく。
 元通り黒髪翠眼の少年に戻ったカナタは、しばし血に塗れた両手を呆然と見つめていたのだが、ある瞬間にどっと疲れが押し寄せて、膝を折りまたも大地に突っ伏す形になった。
「カナタ!」
 もう一人の自分が名を呼びながら駆け寄ってくる音声さえ遠い。抗いようの無い疲労が、暗闇の底へとカナタを引きずり込む。
 完全に闇に落ちる前に視界に入ったのは、自分を抱き起こすもう一人の自分と、その様子を気遣わしげに見つめている、母親似の少女。
「……エレ?」
 愕然とした様子で呟く大きいカナタの声を最後に、カナタは今度こそ意識を手放した。

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