11:『血』の代償

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 波の音に併せて船は揺れ、空を渡る海鳥の鳴く声がその合間から聞こえる。カナタは船の甲板に出て縁に頬杖をつき、どこまでも続く水平線を眺めていた。
 アイドゥールを出て数日。港街ディルアトに着くと、ユウキ王太子の手配した船は既に港でカナタ達を待っていた。
 軍船ではないのでそんなに大きくはない。それでも、長い航海に耐えうるだけの強度を誇り、それを操る人員も、最低限の人数ながら、船長をはじめとしてそれぞれがきちんと熟練した者達だった。
「アルセイルはこの時期、大陸のごく近くを航行しています」
 アルセイルへ何度も荷を運び、国王一家の統一王国訪問の際にも迎えの船を指揮した経験があるという船長は、船室で海図を広げ、「最短距離を行きますよ。お任せください」と、日に焼けたいかつい顔に不釣り合いな、柔らかい笑みを浮かべてみせた。
 行軍訓練で、大河ヴォミーシアを下る船上での演習をした事はあるが、外洋に出るのは初めてだ。日差しを遮るものは何も無く、潮の香りが四六時中あたりに漂っている。外海に慣れていない者は船酔いする事もあるというが、少なくとも出航してから海は穏やかで、気分が悪くなる事も無かった。
 水と食料は出航前に充分な量が積み込まれたが、保存食ばかりであると、たまには新鮮な食材が欲しくなる。風が凪いでしばらく船の動きが止まった隙に、大きいカナタが船員達と共に魚を釣り上げて、その日の昼食に出された。
 アルセイル側の料理人も一人いるので、彼が魚をさばき、鮮魚でなければできない生の刺身を出してくれた。火を通していない魚など、腹を壊しはしないだろうかとカナタは危ぶんだのだが。
「西方でも、釣った魚を生のままで食べる事はあるわよ」
 まず隣席のユーリルが手を伸ばして口にし、故郷の味を思い出したのか、満足げな笑みを浮かべた。
「騎士様が後込みしない」
 彼女はフォークに刺された刺身をこちらに突きつけて、「ほら、あーん」などとまで言ってくる。皆が見ている前でそんな子供みたいな真似ができるかと、カナタは拒否しようとしたが、結局無理矢理口に押し込まれた。
「結婚前から尻に敷かれてるねー」
 大きいカナタがけらけら笑えば、
「頼もしい奥さんで、心強いです」
 と小さいエレもはにかみ、つられて海の男達が豪快な笑い声をあげて、昼食の席は和やかに過ぎた。
 午後の海も落ち着いている。船室にこもっていても、する事が無くて仕方無い。ならば船内の仕事を手伝うべきかと声をかけたのだが、
「騎士様がたは、アルセイルについてからが大変なんでしょう? 休んで英気を養っていていてくだせえ」
 と、悪意の無い笑顔で返されて、結局手持ち無沙汰だ。ユーリルや小さいエレの女衆は、船室のベッドのシーツを取り替えたり、乗組員の洗濯物を洗ったりと、それなりに役に立っているので、余計にのけ者にされている感じがしてならなかった。
 ユーリル達が干した服やシーツが、また吹き始めた順風に煽られてはためいている。これが戦いに赴く途上でなければ、どんなに優雅な船旅であっただろう。ふっと溜息をつくと、用事を終えたユーリルが歩み寄ってくるのが見えた。彼女はごく自然な近さでカナタの隣に並び、そよぐ風を全身に受けて、大きく伸びをした。
「気持ち良いね」
「……うん」
 半年前より伸びた赤毛が風になびく。星を宿した黒い瞳は興味津々で彼方を見つめ、日に焼けた健康的な肌がまぶしく見える。胸元には母親の形見だと言っていたペンダントが、太陽光を受けて青く輝いていた。
 その光を見て、そういえば、と思い出す。ユーリルに、彼女の家族について訊いた事は無かった。母親の事だけではない。将来の義父であるユーカートや、きょうだい達についても、カナタは何も知らないのだ。
「あのさ」
 声をかけると、つりがちな目が不思議そうにこちらを向く。必要以上を言わないという事は、触れられたくない事かもしれない。その瞳を不機嫌に曇らせるかもしれない。その可能性も念頭に置きながら、カナタは言葉を継いだ。
「君の家族の事を、おれは聞いた事が無い」
 瞳が見開かれ、それから、「……ああ」と彼女は小さく洩らす。
「別に隠す事じゃないんだけどね」
 船の縁に手をかけ軽くのけぞって、ユーリルは小さく笑った。
「私、父の子じゃないかもしれないの」
 いきなり明かされた衝撃の告白に、一瞬理解がついてこなくて、カナタはぽかんとしてしまう。しかし言葉の意味を咀嚼すると、心底からの驚きがこみ上げた。
「西方の民は、他部族を攻めた時に、気に入った女を自分の妻にするのが当たり前。部族内での結婚も勿論あるけれど、ほとんどの部族が、ったりられたりよ。それに、フェルムと違って一人の族長に大勢の妻がいるから、母親の同じきょうだいは、ほとんどいない」
 一対の男女が愛を誓う統一王国とは大違いだ。カナタが言葉を失うと、「やっぱり吃驚するわよね」とユーリルは身を起こし自嘲気味に笑った。
「私の母は、父が戦で負かした部族から、一目惚れで連れてこられたんだけど、元は旦那さんがいたのよ。父の妻になって丁度十月で私が生まれたから」
 つまり、ユーリルが真にユーカートの娘である確率は、五分五分な訳だ。母親に訊いてみた事は無いのだろうか、と無粋な疑問が胸に浮かぶ。だが、彼女が続けた台詞は、カナタの浅慮を嘲笑うかのような辛い現実だった。
「母は私を産む時に亡くなったの。だから、誰も本当の事がわからない」
 再度驚愕に目をみはるカナタに淡く笑みかけて、ユーリルは続ける。
「ああでも、不幸だった訳じゃないのよ。父は母を溺愛していた分まで私を可愛がってくれたし。男兄弟ばかりで女が結局私しか産まれなかったから、余計だったのかもね」
 たった一人の娘を依怙贔屓したら、他の兄弟やその母親達からやっかみを受けたのではないか、とカナタは危惧する。しかしその問いを投げかけると、ユーリル自らが首を横に振って否定した。
「兄弟達は、狩りや川遊びや速駆けに誘ってくれて楽しかったし、彼らの母親も子供達を分け隔て無く面倒見てくれたし。私は恵まれていたのかもね」
 そこで一旦言葉を切り、遙か水平線を見やって、しばし沈黙が落ちた後、「でも」と呟くように彼女は言った。
「全然寂しくなかった、って言ったら嘘になるかな。こんなに沢山の温かい人達に囲まれているのに、私は誰とも血が繋がっていないかもしれない、独りかもしれない、って、考えた事もあった」
 赤い睫毛を伏せがちにして、ユーリルは小さく嘆息する。恋人のそんな様子を目にして、憂慮を取り払ってやりたいという思いは強くなる。
「独りじゃないよ」
 その言葉は、ごく自然にカナタの口をついて出ていた。
「おれがもう、独りにしない」
 見開かれた黒の瞳がこちらを向く。逸る心臓に治まれ、と念じながらも恋人をまっすぐに見つめ返して、少年は『アルテアの魔女』の息子に似つかわしくない拙さで、しどもどと言の葉を重ねてゆく。
「それに、その、おれと結婚して、子供が生まれたらさ、君と血の繋がった人間は、少なくとも、一人はできる訳だし……」
 瞳の中の星が瞬いて、それから、ぷっと吹き出す声が聞こえた。ユーリルが口元に拳を当てて、必死に笑いをこらえている。
「ちょっ、待ってよ」彼女は伏せた顔を両手で覆って、ぷるぷる身を震わせる。「あなたの口からそんな台詞が出るなんて思ってなかったから、色々とおかしすぎる!」
 意を決して言ってやったのに、笑いしか出てこないとは何事だ。カナタがむっとした様子を見せると、「ごめんごめん」と、ユーリルは顔を覆っていた両手を振って謝るが、悪びれた様子がちっとも無い。彼女はまだしばらく肩を震わせていたのだが、やがて。
「……ありがとう」
 顔を上げ、口元をゆるめて、殊勝な礼を述べる。その表情が愛おしくて、カナタは無言で手を伸ばし、ユーリルの髪にそっと手をかけて、静かに引き寄せた。意図を察した恋人が、ふっと目を伏せて、引かれるままに顔を近づけてくる。
 互いの吐息を感じる距離まで近づいた、その時。
 突然、緊張とは別の理由で心臓がばくんと大きく脈打つのを感じて、カナタはユーリルから手を離した。彼女が目を開いて、誘っておいて何なのか、とむくれる。その視界にもざっと紗がかかった。
 身の奥から突き上げる衝動がある。砂嵐が吹き荒れたかのごとく世界がぶれる。全身が熱にうかされたように火照ったかと思えば、次の瞬間には歯の根が合わないほどに冷える。そして何より、ひどい渇きを覚えて仕方が無い。まともに立っている事すらできず、カナタはその場に膝をつき、身を抱えて丸まった。
「カナタ!? どうしたの!?」
 ユーリルが心底驚愕した様子で傍らに膝をつくのがわかる。その声が、肉食獣が追い求める獲物の鳴き声のように甘く聞こえる。それなりに鍛えられた肉体がやたら美味そうに見えて、その首筋に牙を立てて貪りたいという誘惑が訪れる。
 それを合図にしたかのように、床についた手が、鋭い爪を有した黒い皮膚に覆われてゆく。ユーリルが唖然として息を呑む気配がわかった。
 駄目だ、と必死に押し殺す理性が、本能に押し流されてゆく。唇を噛みしめると、既に牙と化していた歯は容易く食い込んで、血の味が舌にじんわりと触れた。
「――馬鹿たれ!」
 駆けてくる足音が聞こえたと思った途端、カナタは強い力で肩をつかまれて床に引き倒され、後頭部をしたたかに打った。相変わらず歪んだ視界に、慌てきった顔をしたもう一人の自分の姿が映る。その背後で、何が起きているのかわからずに立ち尽くすユーリルが見えた。
「エレ!」
 大きいカナタの言葉に反応して、彼よりは軽い足音が近づく。押さえ込まれたカナタの傍らに膝をついた小さいエレが、青年から短剣を借りて、躊躇わずに掌を切り裂き、滴り落ちる赤をカナタの口に押し当てた。
 反射的に舌を伸ばし、すがりつくように小さなエレの血を舐め、飲み下す。すると、あれだけかつえていた衝動が嘘のごとく凪いでゆき、視界に揺れていた紗も取り払われていった。
 大きいカナタが深い溜息をつき手を離すと、カナタはのろのろと両手を上げて確かめる。もう、人のものに戻っていた。
「立てるか?」
 青年が手を差し伸べてくるので、その手を借りて起き上がり、まだふらつきながらもその場に立つ。すると。
「……カナタ?」
 疑念と怯えを同時に包括した低い声が耳朶を打ち、そちらを向く。ユーリルが、黒い瞳に明らかに不信感を込めて、自分を見つめている。
「どういう事なの?」
 ああ、とカナタは息をこぼした。
 一番知られたくなかった相手に、一番見られたくなかった光景を見せつけてしまったのだと、思い知って。

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