14:氷女ひめ王の招き

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 海蛇の口の中はじっとりと暗く、落ち着かない。
『私も、そのまま呑み込まれるのではないかと思いました』
 母が頬に手を当ててそう笑っていたのを、今更ながら思い出す。  カナタ達四人は、氷女ひめ王の遣いを名乗る男と共に、巨大な海蛇の口内に乗り込んで、海の中を運ばれていた。どれくらいの時間が経って、どこを泳いでいるのか、全く知る事ができないのが、うっそりとした恐怖を煽る。五人いてこれだけ不安に駆られるのだから、母は一人きりでどれほど心細い思いをしたのだろうか。カナタにはかり知る事はかなわなかった。
 ずっと膝を抱えて丸まっていたので、身体がかちこちに固まってしまっている。少し身をほぐそうと背筋を伸ばした途端、がつ、と頭に固いものがぶつかって、カナタは頭をおさえて余計に丸くなる羽目になった。どうやら海蛇の牙にぶつかったようだ。
 左手でぶつけた箇所をさすりながら右手を海蛇の舌の上に置くと、暗闇の中から伸びてきた手が、ひっそりと重ねられる気配がした。
 乗った時の順番からわかる。隣に座っているのはユーリルだ。彼女もやはり不安を覚えているのだろうか、その手はわずかにだが震えている。ぎゅっと握りしめると、吃驚したのか、手が微かに跳ねた後、力を込めて握り返された。
 やがて、海蛇がゆっくりと泳ぐ速度を落とす気配が訪れる。そして完全に停止し、ぱくりと口が開かれた。闇の中からいきなり光ある場所に導かれて、カナタ達はちかちかする目を手で覆い、しばらく呻いた。
 ようよう目が慣れてくると、ひらりと飛び出す海底人に続いて、各々が海蛇の口からはい出る。そしてそこに繰り広げられた光景に目を奪われ、息を呑んだ。
 一面蒼の世界だった。海と隔てられてそそり立つ水の壁も、きらきら光る床も、天井から下がって謡うように鳴り響く涙型の飾りも、全てが海の色を反映した蒼で彩られている。壁に触れれば、海水の冷たい感触が手に返るが、決して濡れる事は無い。その向こうを悠々と、海底の真っ白い魚が泳いでいくのが見えた。
 カナタ達全員が降りるのを待っていたかのように、海蛇は口を閉じて海の向こうへ泳ぎ去る。それをぼんやりと見送っていると、
「氷女王がお待ちです。こちらへどうぞ」
 案内人に声をかけられてはっと振り向けば、自分以外は皆、海の民の後ろに続いて歩き出している。カナタも慌てて後を追った。
 蒼い廊下を進んでいると、そこかしこから視線を感じる。ちらりと目線だけ巡らせれば、案内人の男と同じく、人間の上半身に魚の下半身を持った海底人達が、老若男女問わずに、こちらの様子をうかがっている。
『人間の女性が来たのは、私が初めてでした』
 かつての母の言葉が蘇る。地上の民がここに訪れるのは、かなり珍しいのだろう。彼らが様子をうかがいたくなるのも当然の事だ。興味が尽きないのはこちらも同じで、大きいカナタも小さいエレもユーリルも、きょろきょろ辺りを見回しながら歩いていた。
 案内人に導かれるまま、奥の間へ踏み込む。一際鮮やかな蒼の飾りが高く謡う部屋に、海底の石を切り出した玉座が置かれ、青い銛を持つ衛兵を両脇に従えたそこに、妙齢の女性が一人、座していた。
「よく来たの、『神の血』を持つ人間達」
 切れ長の目も、目元に塗った色も、にんまりとつり上げた唇に引いた色も、海と同じ青をした彼女は、魚の鰭で作られた扇を広げて口元を隠し、くくっと喉の奥で笑う。破神タドミールの因子を持っている事を見通されている事にカナタ達が身を固くすると。
「まあ、そう身構えるでない」
 女性は少女のようにころころ笑い声をあげて、玉座から立ち上がったかと思うと、扇を閉じてカナタのもとへ歩み寄ってきて、その扇でこちらのおとがいを持ち上げ、接吻できそうな距離まで近づいた。
「我ら海の民はかつて、破神の因子を持つ人間の血を取り入れて生きていた。その名残を感じ取れば、興味を示すのも当然の事よ」
 爪まで青く塗られた細長い指が、カナタの頬をさらりと撫でる。必要以上に近づく女性に、ユーリルがぶんむくれるのが横目でわかったが、カナタはそれに反応せず、目の前の女性が何者なのかを悟って、唖然とその名を呼んでいた。
「あなたが、グレイシア?」
 母の昔語りの中に出てきた氷女王の真名を口にすると、図星だったらしい。彼女は青い目を軽い驚きに見開き、それから、鈴のような笑い声を転がした。
「その名を知っているという事は、そなたはあの娘の係累か? よく見れば面影がある」
 そしてさらに顔を近づけ、懐かしそうにカナタの顔を撫で回し、髪に触れた。
「あの娘の名を、訊き忘れていたのでな。地上ではどれだけの時間が過ぎた?」
「彼女はエレ。おれは息子のカナタです。多分、母があなたと出会ってから、十八年が過ぎました」
 傍らでユーリルの機嫌がどんどん悪くなってゆくのを察する事ができる。が、今は海の民と穏便な対話を築く方が先決だと思い、カナタは氷女王グレイシアの青い瞳を至近距離で見つめながら、答えを返した。
 途端、グレイシアが目を丸くして、「息子」と呟く。
「そうか、息子か。我ら海底の民にとっては十数年など瞬きの間だが、地上の人間は、子をなして歳を取るほどの時間よな」
 それにしても、と、切れ長の目が細められる。
「破神の血はあの娘が消し去ったものと思っていたが。何故今になって、『神の力』を持つ者が現れた?」
 その問いに、カナタは自分の知りうる全てを語った。再び現れた破獣カイダ。自分が『神の血』を得た経緯。千年前からやってきたセイ・ギと小さいエレ。アルテアに倒れた母。全ての決着をつける為にアルセイルへ向かう途中、恐らくセイ・ギの仕業によって、船の乗組員が半破獣にされてしまい、この先の道程に行き詰まっている事までも。
 グレイシアは、カナタが語る間、扇で己の掌を何度も軽く叩いて、こちらの話を聞いていた。そして、カナタが一通り語り終えると、その扇を口の前で広げて、
「事情はわかった」
 と神妙に告げた。
「我が民を再び破獣化の危機にさらす者を放ってはおけぬ。アルセイルへは、我らが送り届けよう。我が下僕を今一度使うが良い」
 カナタは密かに太い眉の根を寄せた。正直なところ、またあの海蛇の口の中に入って運ばれるのは良い気分がしない。しかし、断ればグレイシアの面目を潰す事になるし、何より他にアルセイルへ向かう手段も無い。彼女の心遣いを受け取る事にして、深々と頭を垂れた。
 再び案内人に導かれて氷女王の間を辞そうとした時。
「カナタ」
 グレイシアに呼び止められて、カナタは振り返る。海底の女王は、青の瞳に興味津々という光を宿らせ訊ねてきた。
「そなたの父親は、インシオンか?」
 母の名は聞かなかったのに、父の名は知っているのか。一体どういう経緯があったのか、母は詳しい話をしてくれなかったので、その辺りの事情がわからずに、カナタは一瞬ぽかんとしてしまう。が、気を取り直すと、深くうなずいた。
「己の力で道を切り開き、愛する者と結ばれたか」
 氷女王が満足げに微笑み、その口元を扇で隠す。
「ならば尚の事、あの娘エレが幸いの道を歩めるように、わらわも協力すべきだろうな」
 母とこの女王の間にどんなやりとりがあったか知る由は無い。だが今、彼女は母に対して友情に近い感情を抱いている事は感じて取れた。
 再度頭を下げて、カナタはグレイシアに背を向ける。すると、ユーリルがすっと近づいて、カナタの腕に自分の腕を絡ませてきた。
「……何」
「……別に」
 見下ろすと、彼女は頬を膨らませて、視線をこちらに向けないままそっけなく言い放つ。年上のはずなのに子供っぽい嫉妬をする恋人の行動に苦笑しつつも、カナタはその腕を振りほどく事無く、ユーリルと歩調を合わせて歩いた。

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