18:カナタのアルテア

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 何故だ。
 その考えがカナタの思考を支配していた。
 小さなエレを捜しに行ったはずのユーリルが、何故破獣カイダになって自分を襲ってくるのか。破獣化の衝動に見舞われて、耐え切れなかったのか。
 カナタの動揺を意に介さないかのように、ユーリルだったと思われる破獣は喉の奥で唸ると、再度こちら目がけて翼をはためかせ、飛びかかってきた。咄嗟に破神殺しの剣を掲げるが、少女の腕力を超えた重い一撃がのしかかり、圧されて足がテラスの床を滑る。
「ユーリル!」
 呼びかけても、破獣は今度は芳しい反応を示さなかった。一瞬不機嫌に呻いたように見えたが、黒の眼球でぎょろりとカナタを捉え、何度も爪を振り下ろしてくる。それを透明な刃で受け止めながら、カナタは一歩、二歩と後退を余儀無くされた。
 生まれて初めて見る破獣に、アーシェ王女が耐え切れずに悲鳴をあげるのが聴こえる。シュリアンとルリが何事かを叱咤したようだが、気弱な怯えの声は破獣の耳に届いてしまったようだ。破獣がぐるりと首を巡らせ、室内の国王一家を視界に収める。
(――駄目だ!)
 ユーリルに、破獣として人殺しをさせる訳にはいかない。西方の姫がアルセイルの王族を殺めたとなれば、統一王国すら巻き込んで、それぞれの国の平穏の均衡を大きく崩しかねない。
 それだけではない。ユーリルが人に戻った時、どれほどの罪の意識に苛まれる事か。絶対にそれだけはさせまいと決意して、カナタは王女のもとへ向かおうとしていた白い破獣の前に立ちはだかり、剣を振るった。透明な輝きが宙を切り、破獣は上空へ舞い上がる。
 その隙に横目で見れば、大きいカナタはセイ・ギとの戦いを続けていた。何合も打ち合わされる剣戟の上手を取っているのは青年の方だが、決定打を与える事はできていない。間合いを取ったセイ・ギ目がけて大きいカナタが素早い蹴りを繰り出す。長い脚はしたたかに相手の腹を打ち、よろめいたところへ剣を一振り。胸を斬り裂き、ようやく有効打を食らわせる事ができた。
 だが、『神の血』を持つ人間はそれくらいで怯みはしない。あおのけに倒れかけたセイ・ギは、にやりと口の端に笑みを浮かべると、跳ねるように身を起こし、大きいカナタに頭突きを食らわせた。反撃にふらつく青年の腹へ、破神殺しの剣を一閃。刃は深々と突き刺さって、大きいカナタが激痛に顔を歪ませるのが見えた。
あにい!」
 カナタは思わず破獣の事も忘れ、駆け寄っていた。更なる攻撃を食らわせようとするセイ・ギに向かって剣を振り払い後退させ、大きいカナタの傍に膝をつく。彼は傷口をおさえてぜえぜえと苦しい息を繰り返していたが、ふとカナタの顔を見上げると。
「ごめん」
 いきなりそう詫びて、まだ塞がりきっていないカナタの肩の傷に食らいつくように口をつけた。何を考えているのかとカナタが驚きにとらわれている間に、青年はカナタの血を嚥下する。
 セイ・ギに対抗する為に『神の血』を得たのだ、と理解した時には、彼はもうよたつきながらも立ち上がり、剣を握り直していた。かつても『神の血』を持っていた人間には、馴染むのも速かったのだろうか。凡人なら動けなくなるほどの深手を負ったはずなのに、もう一人の自分はしっかりと足を踏み締めてセイ・ギを睨みつけ、再び床を蹴って斬りかかっていた。
 自分の『神の血』が青年にどれだけの効力を与えたか、カナタが最後まで見届ける事はかなわなかった。アーシェ王女の悲鳴が再び耳を突いたからである。はっと振り向けば、上空に逃れていたはずの白い破獣が室内に侵入して、国王一家へじりじりと迫っていた。
「ユーリル!」
 カナタは再度呼びかけ、破神殺しの剣を放り駆け出していた。徒手で破獣を追いかけ、飛びかかるようにその背にしがみつく。破獣が苛立たしげに唸り、振りほどこうと身をよじるが、カナタはしっかりと破獣を抱き締めたまま離さない。
「駄目だ、ユーリル」
 一瞬、破獣が弱々しい声を洩らして、だらりと両腕を下げた。懇願が届いたのかとほっとする。だが直後、破獣の周囲を黒い蝶がふわふわと漂ったかと思うと、その胸に吸い込まれる。黒い眼球がぎょろりと鋭くカナタを見下ろした直後、首筋に熱が走った。
 噛みつかれたのだ、と気づいた時には、激痛が襲い来た。破獣の牙が食い込み、肩に爪を立てて、ごっそりと肉を持ってゆかれる。あっという間に騎士服が血で濡れるのがわかる。ひどい耳鳴りがして、周りの音が聴こえない。
 膝から崩れ落ちそうになって、しかしカナタは必死に己の身体を叱咤して耐えた。今ここで自分が倒れたら、ユーリルを止める者がいなくなる。彼女が罪に堕ちるのを引き留める人間がいなくなる。自分は独りかもしれない、と儚げに笑った彼女を、永遠の孤独に追いやってしまう。
 すがりつくように破獣の肩をつかむと、ぽたり、と、頬に何か冷たいものが触れる気配がして、カナタは歪む視界を上に向け、そして、見た。
 黒い眼球からぽたぽたと水分を溢れさせる破獣を。
 泣いている。ユーリルが泣いているのだ。それを見て、カナタは確信した。ユーリルはまだ、人の心を保っているのだと。呼び戻せるかもしれないと。
 震える両手を伸ばし、頬に当てる。実際に触れる皮膚は固かったが、いつか触れ合った唇の柔らかさを、今も鮮やかに思い出せる。
「……ユー、リル」
 喉からはかすれた声しか出ない。それでも、言葉を紡ぎ出せる事に感謝しながら、カナタは必死に告げた。
「ごめん。君を、ここまで、追い詰めて」
 破獣の動きが止まった。殺意が弱るのを感じる。黒の眼球はしっかりとカナタの顔を映し出している。この声が彼女の胸に響いている事を願いながら、言を継ぐ。
「きちんと言わなかった、おれが悪い。君はいつも、目一杯の想いを向けてくれたのに、おれは一度も、言葉にして返した事が、無かった」
 去年の夏の終わり、耳元でささめいてくれた言葉。カナタの無事に安堵して飛びついてきた小柄な身体。婚約者として両親に会いに行く為、一生懸命迷っていた服選び。部外者にしないでと懇願した瞳。無茶をしたら止めてと、あなたが無茶をしたら私が背中を守ると、告げた時の自信。幾度も見せた嫉妬の顔。破獣になる真実を知っても見捨てないで、同類になる覚悟までしてくれた心の強さ。
 どれほどの愛情を、自分はこの少女からもらっていたのか。カナタはそれを噛み締めつつ、「ユーリル」万感の思いを込めて、言の葉を血塗れの口から爪弾いた。
「君が好きだよ」
 破獣の身がびくりと震える。
「君が大好きだし、抱き締めてキスしたいし、それ以上の事だってしたいし、ずっと一緒にいて、ずっと笑っていて欲しい」
「さらりととんでもない事を言っているな」
『神の血』で傷が癒えてきたのだろう。耳鳴りは治まり、唖然とするアーヘル王の呟きが聴こえたが、それに構わず続ける。
「君を失いたくないし、君の事をずっと守りたいし、嬉しい事も悲しい事も全部分かち合って、死ぬまで君に寂しい思いをさせたくない」
 いや、死した後も創造の女神ゼムレアの御許で、永遠の安息を共に過ごしたい。
 ぽたぽたぽたっと。カナタに降り注ぐ涙の量が増す。黒の眼球を見上げ、血の味がする己の唇を舌で湿して、カナタはその一言を、大事に大事に紡いだ。
『君を、愛してる』
 途端。
 カナタの周囲を虹色の光が取り巻いたかと思うと、それは眼前で収縮し、ひとつの形を取った。
 たとえるならそれは、虹色の、隼。
「アルテア……」
 アーヘル王とシュリアン王妃が唖然と洩らすその前で、濁り無き言の葉で編み出された隼は白く光ったかと思うと、破獣の身に吸い込まれる。すると、変化が起きた。
 破獣が小さく唸り、身を屈める。牙や爪が消え、翼がしゅるしゅると消えてゆく。白い皮膚が人肌に戻る。カナタより一回り大きかった身体が逆に一回り小さくなり、腕の中に収まる。
 赤毛が揺れ、星を宿した黒い瞳が極限まで潤んで、カナタを見上げている。
「……カナタ」
 心地良い声が耳朶を打つ。今までに無いほどの愛おしさがこみ上げて、カナタはしっかりと恋人を抱き締め、彼女も少年の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。
 その時には、大きいカナタとセイ・ギの戦いにも決着がつこうとしていた。『神の血』を得て、傷を食らっても怯む事の無い青年の気迫は、『神の力』を身につけたばかりの少年の胆力を軽く凌駕していた。『エレ』を救う事に躊躇いなど無い鬼気迫る攻撃にセイ・ギはどんどん圧され、遂に大きいカナタの一撃が敵を捉え、肩から心臓までをも深く斬り裂いたのである。
「ぐ……はっ!」
 剣を取り落とし、膝をついて血の塊を吐き出して、セイ・ギは憎々しげに青年を見上げた。
「何で、だ!」
 烏のようなしわがれた声が、その喉から絞り出される。それを見下ろす大きいカナタの表情は、かつて見せたのと同じ、父インシオンが軽蔑すべき敵に出会った時の眼差しそのものだった。
「お前とは歩んできた道が違うんだよ」
 そっけなく吐き捨て、彼はとどめとばかりに剣を振り上げる。だが、それが振り下ろされる直前、セイ・ギが呻いて目を見開いた。その胸から、異質な物が突き出している。いやそれは、たった今彼が手放した、破神殺しの剣だった。
 のろのろと。彼は背後から自分を刺した人間を振り返る。信じられない光景を目にした時、人は驚きより笑いが先に立ってしまうのだろうか。笑顔にすら見える表情で、少年は首を傾げ、その名を呼んだ。
「ミ、ライ?」
 ずるりと、剣が引き抜かれる。その言葉を最期にして、世界に混沌をもたらすはずだった正義の名を持つ者は、ぐらりと傾いだ後に床に倒れ伏し、二度と動かなかった。
 だが、悪魔が倒れた後も、脅威が去った訳ではなかった。血に濡れた破神殺しの剣を手にして立つのは、赤銀髪の少女。小さいエレだった。
「ありがとう、セイ・ギ」
 血溜まりに沈んだ少年に、いやに優しい声色で語りかけ、彼女はうっとりとした面持ちのまま、鋼水晶の剣を指でなぞる。
「これで私は、本来の力を」
 言いさして、いいえ、と首を横に振る。
「それ以上の力を、得る事ができる」
 そうして彼女は、刃に付着したセイ・ギの血を舌で舐め取り、満足げに飲み下す。
 変化は、すぐに表れた。
 カナタの胸ほどまでしか無かった身長が急速に伸びてゆく。あっという間に、二十九という年齢に相応しい姿を取り戻した彼女の変貌は、しかしそれだけで終わらなかった。
 赤銀の髪が更にたてがみのように伸びる。鳥の羽根のような白い翼が二対、背に生える。にやりと持ち上げた口からは牙がのぞく。
 半破獣に近い、美しくすらあるその姿はしかし、人間の原初の恐怖心を呼び起こす。
「これで私は、あのエレの代わりに、永遠にあの人の隣を得られる」
 まさに『アルテアの魔女』というべき姿を手に入れた『エレ』は、カナタ達の前で、満ち足りた笑顔を浮かべるのだった。

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