19:アルテアの魔女

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『エレ』は高笑いを響かせながら、宵闇の空に舞い上がると、アルテアを紡いだ。
『炎の矢よ、雨と降れ』
 破神タドミールに近い力を得た魔女に最早血の媒介は必要無いのか、唇を噛み切る事も言の葉の石も無しに虹色の蝶が生まれたかと思うと、赤く輝き、火の雨になって降り注ぐ。カナタは反射的に唇を血で濡らし、叫んでいた。
『破壊から守る光を!』
 虹色の隼が青く輝いて光の障壁となり、次々と火球を受け止めて四散させる。
「ここから出ないでください」
 国王一家を振り返り告げると、カナタは床に落としていた破神殺しの剣を拾い上げ、『エレ』を見上げた。すると。
「君一人に良い格好はさせないよ」
 セイ・ギの鋼水晶の剣を手にした大きいカナタが右側に立ち。
「あなたの背中は私が守るって言ったでしょう?」
 もうすっかり泣き止んで不敵な笑みを浮かべるユーリルが左に並ぶ。
『神の血』を得た時は、自分に同志などいないと思っていた。だが今、同じ痛みも苦しみも悩みも分かち合える相手が、両脇にいてくれる。それを何物にも代えがたい心強さにして、カナタは上空の『エレ』を見上げる。
「エレ」
 続けた言葉は自然にアルテアを紡いでいた。
『あなたの悲しみを、きっと終わらせてみせる』
 複数の虹色の隼が舞い、橙に輝いてカナタ達それぞれの身に吸い込まれる。すると、『神の血』に反応して破獣カイダ化が始まった。だがそれは、完全なる獣への変貌ではなく、髪がたてがみのように伸び、牙が生え、背に翼を生やすだけで進行が止まる。期せずして、十八年前、カナタの母が破神との最後の戦いで用いたアルテアと同じ効果を発揮したのだが、カナタが知る由は無い。
 それでも、少年達が魔女に対抗するには充分だった。たん、と地を蹴るだけで身体はふわりと浮き上がり、上空の『エレ』目がけて飛んでゆく。
「生意気な!」
『エレ』が牙をのぞかせて激昂し、右手を振りかざす。
『墜ちろ!』
 彼女の周囲に蝶が舞い、紫の刃に変化したかと思うと、右手が振り下ろされるのを合図に、高速で降ってきた。かわせるものはかわし、かわしきれないものは剣で叩き落として、直撃を避ける。それでもいくつかが肩や脚に刺さって、カナタ達に痛みを強いる。
 だが、こんな事ごときでひるんでいる場合ではないし、傷は数分で回復する。カナタは翠眼に決意の光を込めて『エレ』へ肉薄した。
「邪魔をしないで!」彼女が血を吐くような叫びをあげる。
「あなたにはわからないでしょう。愛する人を喪って、仲間が少しずつ減っていって、それでも生きろと言われて、守り続けなければいけない存在がいて」
 がつ、と首をつかまれ、鋭い爪が食い込んでくる。
「狂う事も許されなかった、私の気持ちなんて!」
 締めつける力はとても女性の握力とは思えない。このままでは喉を握り潰されるだろう。呼吸ができなければ『神の血』をもってしても死ぬかもしれない。焦りが生まれるが、身をよじればよじるほど、相手の力はより一層強まってゆく。
 だが、横から振り下ろされた輝きに、『エレ』は舌打ちしてカナタから手を離し、翼をはためかせて距離を取った。
「わからないよ」
 大きいカナタだった。破神殺しの剣を振り下ろした体勢のまま、『エレ』を睨みつけている。
「僕はあの時子供だった。力さえあればあなたを救えると信じて疑わなかった。自分がいかに愚かだったか思い知ったのは、大人になってからだよ」
 だけど。と彼は彼女と同じ若草色の瞳を細めて続ける。
「こんな事は、あなたのインシオンも望んでいないってのだけは、僕にだってわかる」
「知った口をきくなあああああっ!!」
『エレ』が女性にあるまじき形相で激昂すると、再び蝶が舞い踊る。今度は黒い刃として輝いて次々とカナタ達を狙う。しかも恐るべき事に、今度の刃は、一度身をかわしても、空中で反転し、しつこくカナタ達を追尾してくるのだ。
『守りの光を!』
 カナタも宙を翔けながらアルテアを紡ぐが、白い守りの衣がこちらを包み込んでも、黒い刃はお構いなしにそれを貫通して襲いかかってきた。驚きに目を見開いて、思わず動きが止まってしまう視界の端で、赤毛が揺れた。
 ユーリルだった。短剣で黒の刃を次々と叩き落とすが、全てをいなしきる事ができずに、二、三発を胸に食らう。呻いてふらつく身体を抱き留めると、腕の中で彼女は「大丈夫」と微笑んだ。
「守るのはあなたの背中だけじゃないわ」
 その言葉が今は何よりも頼もしく、そして、愛おしい。カナタは再び上空を仰ぐ。『エレ』はこちらを睥睨して、次なるアルテアを生み出そうとしている。
 これ以上彼女に罪を重ねさせる訳にはいかない。その為にも、自分が全てを終わりにしよう。この力で。
 そう決意して、「あにい 、ユーリル」と仲間に声をかける。
「おれが行く。道を開いて」
 それだけで、意図は伝わった。二人が力強くうなずき、翼をはためかせて飛翔する。
「ちょこまかと!」
『エレ』が鬱陶しげに言い放ち、再び黒の刃を放った。逃げるように旋回する大きいカナタとユーリルを追って刃が飛ぶ。その合間を縫って、カナタは破神殺しの剣を握り直して、『エレ』の真正面へと飛翔した。
 他の二人に気を取られていた『エレ』がぎょっとして目を見開く。その表情はカナタの母が驚いた時と同じで、本当にこの人が母と同一人物であるのだな、と呑気な考えが脳裏をよぎったが、すぐにその思考を駆逐して、アルテアを宣誓した。
『インシオンの愛したエレは、こんな事はしない!』
『エレ』の顔に更に驚きが乗る。その眼前で虹色の隼が金色に輝いたかと思うと、彼女の胸に吸い込まれる。追い打ちをかけるように、カナタはその胸に、鋼水晶の剣を深々と突き立てた。
 甲高い悲鳴が夜空を駆け抜ける。黒い刃が粒子となって散ってゆく。『エレ』は信じられないものを見るような目で、己の胸に刺さった、愛する男の剣を見つめていたが、は、とひとつ息を吐き出すと、ゆっくりとのけぞる。カナタが静かに剣を引き抜くと、彼女の身体から破獣化が解かれ、血の花を咲かせながら、やけにゆったりと、彼女は落下を始めた。
 そのまま何も無い地上まで落ちてゆくかと思われた彼女の身体を、しかし空中で受け止める手があった。その手の主を見た時、カナタも大きいカナタもユーリルも、そして『エレ』自身さえも、驚きのあまり瞠目してしまった。
 その姿は半分空に霞んでいて、実体が無い事をうかがわせる。しかしその腕はたしかに、『エレ』をしっかりと受け止めていた。
『……エレ』
 低い声が耳朶を打つ。赤い瞳が懐かしさを込めて彼女を見つめている。
 父インシオンだった。だが、カナタの知る父の今の姿より遙かに若い。それで悟った。今そこにいる父は、別の世界で『エレ』が喪った、彼女の『インシオン』なのだと。
『すまなかった』
 別世界の父が、母をその腕の中に強く引き寄せる。
「……イン、シオン……!」
『エレ』の瞳があっという間に潤み、子供のようにしゃくりあげながら、彼女は愛する男の胸にすがりついた。
『辛い思いをさせたな』赤銀の髪を大きな手ですきながら、彼が囁きかける。『でも、もういいんだ。もう苦しむな』
 それは誰の同情の言葉よりも優しく、どんな許しの言葉よりも強く、確実に、『エレ』の胸を打ったに違いない。彼女の顔から険が完全に失せ、とめどなく滂沱する。その姿が、父と同じように半透明にかすんでゆく。
「……ごめんなさい」
 不意に『エレ』がカナタ達の方を向き、静かに言葉を紡いだ。
「許されるなんて、思っていないけれど」
 その台詞に、ユーリルが何かを言わんと口を開きかけるが、カナタはそれを遮り、首を横に振った。
「あなたのおかげでわかった事も沢山ある。だから、気に病まないで、ゆっくり休んで」
 隣で大きいカナタも静かにうなずく。『エレ』はくしゃりと顔を歪めて、またぽろぽろと涙を零した。
「本当にあなたは、良い子に育ってくれたのね」
 彼女は手の甲で涙を拭うと、凛とした光を瞳に宿して、手をかざした。
「あなた達の未来の為に、解放のアルテアを贈ります」

『あまねく破神の因子をこの世界より消し去り、我らの子孫に久遠の平穏と幸福を』

 その途端、無数の蝶が飛び立ち、舞い踊ったかと思うと、金色に輝いて飛び散った。アルセイルの夜空が真昼のように明るく照らし出され、人々は何事かと家の窓を開けて空を見上げる。
 その蝶がカナタ達三人の身にも吸い込まれる。すると、破獣化が解かれ、それぞれがゆっくりと地上に降り立った。
『ありがとう』
 インシオンの腕に抱かれたエレが、彼と共に消えてゆく。
『さようなら』
 りん、と鈴のような音を最後に立てて。
 金色の燐光を残し、彼女は愛する者と共に、この世界を去った。

「――エレ?」
 アイドゥールの一軒家。昏々と眠り続ける妻の傍にいたインシオンは、はっと現実に戻り、顔を上げた。知らぬ間にうたた寝をしてしまっていたらしい。
 エレの声が聴こえた気がしたのだが、幻聴だったのか。溜息をついて、変わり無く目を閉じたままの妻の顔を見やった時、一匹の金色の蝶が部屋の中を漂っている事に、彼は気づいた。
 この現象を起こせる人間を、彼は一人しか知らない。しかもそれは十数年も前の話で、もう世界にその力は存在しないはずだ。
 彼の困惑をよそに、ふわふわ踊っていた蝶は、静かにエレの胸に舞い降り消える。すると、青白かった妻の顔に赤みがさし、赤銀の睫毛が震えて、ゆっくりと、若草色の瞳がその下から現れた。
「……インシオン?」
 彼女はしばしぱちくりとまばたきをしていたのだが、不意に小首を傾げる。
「泣いているんですか?」
 その言葉に、はっとして顔に手をやると、濡れた感触が返ってきた。王国軍総大将でもある『黒の死神』が妻の無事に安堵して泣いた、などと世間に知られたら、どれだけの笑い種になるものか。
 しかし今はそんな事はどうでも良かった。愛する女が死の淵から帰ってきてくれた。それだけが嬉しさの波となって押し寄せ、妻をしっかりと抱き締めて、涙を流れるに任せ、耳元で囁きかける。
「お前が無茶ばかりするからだ、馬鹿たれ」
 そして彼は、自分の息子が事を成し遂げたのだと、確信するのであった。

 夜が明ける。
 アルセイルの人間に犠牲者はいなかった。国王一家や衛兵達はカナタのアルテアによって守られた為、被害をこうむることは無かったのだ。
『エレ』が残した解放のアルテアで、カナタ達の『神の血』も完全に消えたらしい。試しにカナタが指先を短剣で小さく切ってみたところ、痛みが走ってぷくりと血の粒が浮いたが、すぐさま傷が塞がり回復する様子は無い。破獣化する事も、もう無かった。
 事切れたセイ・ギは、海の見える丘、千年前のエレの墓の隣に埋葬された。自分だけの『ミライ』を求めていた彼だが、アルセイル人に危害を及ぼさなかった事、大陸で破獣を生み出したのも彼ではなかった事で、アーヘル王が、丁重に弔うようにとの許しを下したのである。
「何か、エレにあれだけの事をしたのに、こいつも可哀想って話になっちゃったよね」
 大きいカナタはぶつくさ文句を言いながらも穴を掘り、少年の遺体をしっかりと葬った。
 彼の隣にカナタとユーリルは立ち、しばらく墓に手を合わせていたのだが、「さてと」と、大きいカナタが不意に伸びをしながら面倒臭そうに言った。
「僕はアーヘル王のところへ戻るよ。アルセイルを巻き込んだ事を詫びなくちゃいけないし、帰りの手段も相談しないと」
 そうだ、と思い至る。行きの船はもう使えない。氷女ひめ王グレイシアも、あの時は切羽詰まったカナタ達に興味を示しただけの気まぐれで、もう協力を仰ぐ事はできないだろう。海底の民は無闇に地上の人間の前に姿を見せないのだ。お互いの領分は守らねばならない。
 だが、青年が続けた言葉に、カナタは彼の意図が別の場所にあった事を思い知る。
「後は二人で、ごゆっくり」
 大きいカナタは、少年少女の顔を交互に見て、にやりと笑うと、踵を返してその場から立ち去ったのである。気を利かせたと恩を売るつもりだろうか。
 カナタがふてくされていると、その腕に、細い腕がそっと絡みついてきた。見下ろせば、星を宿した黒い瞳が見つめている。
 もう言葉にする必要は無かった。どんなアルテアを紡ぐよりも深く、心に根付いた感情がある。
 赤毛に手をやって引き寄せる。少女が微笑んで目を閉じる。今度こそ何にも邪魔される事無く、柔らかい唇の感触が口に触れる。そういえばまともに口づけを交わすのも、これが初めてだったか。そう思いながら、少年はより一層腕に力を込めて、少女を抱き締める。少女も素直に身をゆだねてきた。

 アルセイルに驚異をもたらした夜が去り、新しい朝がやってくる。水平線の向こうから顔を出した太陽は、寄り添う恋人達を祝福するように照らし出していた。

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