第8章:絶望の始まり(3)
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 事態は一刻を争う。
 結局あたしたちは、クライスフレインに戻らないまま、世界の中心へ向かう事になった。アリミアには嘘をついてしまった形になるけれど、全てが終わってからきちんと謝ればいい、と自分に言い聞かせた。
 眼下には一面の青い海。だけどその水面が、次第に黒みを帯びて荒れはじめる。霧がだんだんと濃さを増し、先がよく見えない。方向感覚を失いそうになる中、ナイアティットたち騎士は、グリフォンを迷わせる事無く、目的地へ飛ばしてくれた。
 そして、唐突に霧が晴れた。視界に飛び込んできた光景を見て、誰もが息を呑む。
 誰も探求した事が無かったのか、探求に出かけた誰も帰って来られなかったのか。永年地図では空白と示されてきた世界の中心には、たしかに島があった。
 決して大きくはない。だけど、ごつごつとした岩場から成るその島は、世界から隔絶され、何者をも拒んでいるように見える。
 それを立証するかのように、島に近づけば近づくほど上空の気流が乱れて、グリフォンが飛び続けるのを困難にする。ヴァリアラ騎士たちは必死に手綱を操り、何とか島の東端にグリフォンを降り立たせた。
 岸壁に荒波が打ち寄せている。空には黒い雲がたちこめている。島全体に、不吉というか、邪悪。そんな空気がよどんでいた。
「エーデルハイトの時も言ったが」
 レジェントがナイアティットたちを振り返り声をかける。
「危険だと思ったら離脱するんだ。ナイア、君が帰らなかったら、俺はサイゼルに申し訳が立たないからな」
 それを聞いたナイアティットは、不敵に笑み返した。
「陛下をお見捨てしてクライスフレインに戻りましたら、それこそ良人おっとに合わせる顔がございません」
 そうして彼女は、深々と、とても綺麗な姿勢でおじぎをする。
「ご無事のお帰りを、お待ち申しております」
 ここから先へ進むのは、あたし、兄さん、エイリーン、リサ、レジェント、クロウの六人だけ。鬼が出るか蛇が出るか。いやがおうにも緊張は高まった。
 ごつごつとした岩ばかりの、道無き道をゆく。ごろごろと不気味な遠雷が聞こえる。こんな岩場で雨にでも降られたら、足を滑らせて頭を打ちかねない。気をつけながら歩を進めていると。
 周囲を取り囲む、殺気。あたしたちは足を止め、各々の武器を構えた。
 岩場の陰からのっそりと姿を現したのは、黒い鱗に覆われた、鋭い牙と爪を有する、人間の倍以上はある巨体。数は、三。
竜獣ドラゴン!?」竜族であるエイリーンが目を見開いて、信じられない、とばかりに洩らす。「そんな、黒竜は……!」
 敵の竜はそんな隙を待ってはくれない。一声吼えると、丸太みたいな腕を振りかざしてきた。振り下ろされる爪をかわして、一体に向き直る。クロウが咄嗟に加勢してくれる。他の一体にはレジェントとリサが向かい合い、呆然と立ち尽くすエイリーンを守るように、兄さんが残りの一体に打ちかかった。
 竜の鱗はそんじょそこらの刃など簡単に弾く。そう、魔物辞典で読んではいたけれど、実際に相手にするのは初めてだ。どこまで通じるのか、あるいは通じないのかは、試してみなくちゃわからない。
 あたし目がけてばかでかく開いた口を、身を引いて避ける。がぢり、と剣呑な牙がかみ合わされたところで、地を蹴り鼻先を駆け上がって、竜の背へ回り込み、剣を突き出した。
 予想通り、かきんと硬い手ごたえと共に剣は鱗にはね返される。いくらミーネさんの武器が優秀でも、さすがに駄目か。眉間に皺を寄せた時、詠唱が耳に届いた。
『光の精霊よ、同胞はらからの手にする輝きに宿りて、悪しき者を裁く力を』
 たちまち、あたしたちの武器が青白い光に包まれる。リサが第三階層の、武器の威力を上げる魔法を使ったのだ。
 再度剣を振り下ろす。刃は確実に鱗の隙間に吸い込まれ、傷を作った。
 竜が痛みに咆哮をあげてのけぞるので、振り落とされそうになって、慌てて頭部の角をひっつかみ、ぶら下がる形になる。その間にクロウが、がら空きになった腹部へ向けて双剣をなぎ払った。鱗に覆われていない柔らかい竜の腹はあっけなく裂け、クロウは容赦なく返り血を浴びる。だけど彼は怯まず、返す刃を心臓があるとおぼしき位置に突き立てる。急所を貫かれた竜は、耳をつんざくような叫びをあげたけれど、唐突にそれが途切れ、どう、と横ざまに地に倒れ伏した。
 皆は無事だろうか。地に降り立って振り返るけれど、心配は無かった。リサの光魔法の援護を受けたレジェントは敵の心臓を貫通し、兄さんは大剣で竜の首をはね飛ばしていた。リサの魔法の効果だけじゃなくて、兄さんの膂力りょりょくがあるからこそできる芸当だ。
 三体の竜は沈黙したけれど、エイリーンは緑の瞳を見開いたまま、目に見えてがくがく震えていた。その視線が向く方向を皆で見やって、あたしたちは再度戦闘体勢を整える。
 エイリーンが凝視する先には、ひとりの男が立っていた。一見すると、銀にすら見える白いひげをたくわえた、色黒でしわしわのただの小柄な老人。なんでこんな所にいるんだろうと思わせる。
 素人だったら、そこで気づかなくて接近を許し、そのまま殺されているんじゃないだろうか。この底知れぬ圧迫感を感じ取れないままに。
「……グヴィナス……」
 エイリーンが震える声を絞り出す。そこには明らかに恐怖が含まれていた。
「グヴィナス・ティアマット・オレーグ……!」
 その名を呼ばれた男が、にたりと唇を笑いの形に歪めた。
 三つの名前を持つ。それは王族、あるいは人ではない者を示す。そしてカバラ社の魔物辞典には、竜族の事も記されている。白竜王ナーガの一族と並び立つ力を誇る、黒竜の一族。残忍な性質を持つ彼らの頂点に立つ黒竜王は、ティアマットの名を冠すると。
「これはこれは」
 グヴィナスと呼ばれた黒竜の王は、わざとらしく驚いた様子で、瞳の小さな目をエイリーンに向けた。
「ナーガの死にぞこないの娘か。このような場所で会えるとは、いやはや奇遇奇遇。何年ぶりか」
「何故!?」
 エイリーンは、一歩、二歩と後ずさる。こんなに怯えた彼女の姿を見るなんて、初めてだ。
「あなたは、おじい様が」
「おじい様? ああ、バスクの事か。バスク・ナーガ・ファルガータ。友を裏切り死の淵に叩き落した、あのおいぼれ」
「ふざけないで!」
 グヴィナスの言葉をさえぎるように、己の恐れを振り払うように、エイリーンは声を荒げる。
「あなたのせいで、白竜の森は、一族の皆は、わたしは……!」
「それがどうしたね」
 グヴィナスは、飄々とした様子で、些細な困りごとのように肩をすくめてみせる。
「竜族は、人間どものように複数の王が並び立つ必要など無い。最強者がひとりいればよい。儂は弱者を排除したまでだよ、バスクの孫娘」
 そうだ、エイリーンは前に言っていた。故郷を滅ぼされたと。恐らくはこの、グヴィナスの手によって。そしてそれは、あたしにとってあたしの過去がそうであるように、大きな心的外傷トラウマになって深く刻まれている。今まで彼女がそれをあたしたちに見せなかっただけだ。こうして仇本人を前にするまで。
「それで?」
 グヴィナスが嘲笑をエイリーンに向ける。
「復讐でもするつもりか? 儂を目にしただけでそんなに怯えている、おぬしが?」
 エイリーンはぐっと言葉を飲み込んで、グヴィナスを睨み返した。だけど、どんなに心を律しようとしても、身体は素直だ。目に見えて震えていた手足が力を失って、がくりとその場に膝をつく。
「わたし、は……」
 震える己の身体を両腕で抱きしめ、両目からぽたぽたと涙の粒をこぼして、エイリーンは言葉をしぼり出そうとする。
「……わたしは」
 彼女には無理だ。あたしたちがエイリーンの前に出ようとした時、無言で彼女とグヴィナスの間に割り込んだ人がいた。その人物が意外すぎて、あたしはしばしぽかんと口を開けてしまう。
「さがっていろ」
 エイリーンをかばうように立ち、大剣を油断無く構えるのは、兄さんだった。
「あんたに討てぬ相手なら、俺が斬ってやる」
 珍しく、本当に珍しく、兄さんは明らかに怒っていた。その怒りの矛先は、恐怖で立ち上がれないエイリーンにじゃない。彼女を嘲るグヴィナスに対してだ。兄さんが、家族以外の人を想って感情をあらわにするのを、妹のあたしでさえ、生まれて初めて見たかもしれない。
「ラテジア……わたし、わたし」
 涙声を震わせるエイリーンを振り返り、本当に一瞬。
「任せていろ」
 兄さんが、口元を緩めたような気がした。エイリーンが、あっという間に耳まで赤くした後、またこらえきれずに涙を流してうずくまる。
 そんなふたりを、しかし、実にくだらないといった様子で、グヴィナスは笑い捨てた。
「人間ごときが。儂と対等に渡り合えると思うか」
「やってみなければわからんだろう」
 兄さんはグヴィナスに向き直り、半眼になる。兄さんに睨まれたら大概の敵は怯むはずなのに、黒竜王はこれっぽっちも怖じ気づかない。
「貴様らのごとき相手など、まともにしておれぬわ」
 そうして自身の背後を振り返る。
「人間には、儂同様、あのお方が黄泉から呼び戻した、人間で、充分よ」
 また「あの方」。しかもその者には、死者を蘇らせる力がある? 兄さんが警戒しながら剣を構え直す。
 だけど、その手が急に中途半端な位置で止まった。どうしたのか。顔を見ると、兄さんは、さっきエイリーンがグヴィナスを目にした時に負けず劣らぬ、驚愕に満ちた表情を、顔じゅうに浮かべている。
「まさか」
 こんなに動揺しきった兄さんの声、あたしでさえ初めて聞いた。
「……嘘だ」
 かつ、かつ、と岩場に靴音を響かせて、グヴィナスの後ろから一人の人間が姿を現す。女性だ。兄さんと歳がそう変わらないか、もしかしたらもう少しだけ年上なのかもしれない、セミロングの栗色の髪に、薄茶の瞳の、美人。その背に、細身に似合わない大剣を背負っている。
「ラシェル」
 彼女に視線をくぎづけにされたまま、兄さんが、震える声で名を呼んだ。
「ラシェル・シルベスタ……!?」