第8章:絶望の始まり(4)
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「久しぶりね、ラテジア」
 ラシェルと呼ばれたその女性は、兄さんをまっすぐに見つめて、控えめに笑みこぼれる。
「あの頃より、また少し背が伸びたかしら」
「……やめろ」
 半ば放心状態で、剣を握る腕をとうとうだらりと下げて、兄さんは首を横に振る。
「あんたは、二年前」
「そう、死んだわ。あなたに看取ってもらった。紛れも無い事実」
 まるで他人事のようにラシェルさんは語る。その台詞で気づいた。兄さんが旅に出たての頃、道を共にし、そして亡くしてしまった女性とは、この人の事なんだと。
「でもね、私をこの世に呼び戻したひとがいるの」
『大地の精霊よ、我が身にその剛健なる力の片鱗を宿せ』
 歌うように綺麗な声で詠唱が流れる。
「そして、あなたたちの戦力を殺げというそのひとの希望に、私は逆らえない」
 直後、ラシェルさんは、女性の身には相当重いだろう大剣を鞘から抜き放ち、軽々と振り回した。詠唱は第三階層、自身の筋力を限界以上に高める強化魔法だったんだ。それでこの人は、こんな細身でこれだけの剣を振り回せるのか。
「さあ、剣を構えなさい、ラテジア」
「できない」
 血を吐くような、兄さんの切実な声。だけどそれも、ラシェルさんへの抑止力にはならない。
「短い間だったけれど、一緒に戦いあなたの剣術を鍛えたのは、私。なら、私の実力をよく知っているはずよね」
 薄茶の瞳がすっと細まった。途端に襲い来る、殺気。強化魔法で脚力まで上がっているのか、一瞬にして距離を詰めた相手の剣を、兄さんはほぼ反射で剣を掲げ、受け止めていた。
「やめてくれ、ラシェル!」
 二合、三合、打ち合いながら、兄さんはラシェルさんに必死に呼びかける。
「俺はあんたを殺せない!」
「私は本気であなたを殺しにかかるわよ」
 まるで聞き分けの無い小さい子をたしなめるかのような、ラシェルさんの口調。碧い石を柄に埋め込んだ銀色の刃がぎらりと光り、兄さんの剣とぶつかり合う。
 ぎりぎりとつばぜり合う二人。力は今のところ互角。だけど兄さんが精神的に、相手を倒せない、という不利を抱えている。
 無理だ。そう判断を下したのはあたしだけじゃなかった。あたしが剣を抜くとほぼ同時に、レジェントとクロウもそれぞれの武器を構える。
「――やめろ!」
 それを制したのは、ほかでもない、兄さんだった。
「手を、出さないでくれ」
 思わず、誰もが動きを止めていた。手を出すな、といういつもの命令形じゃなくて、願いの形を使うなんて。
「ラシェル」
 懇願するように兄さんがラシェルさんに問う。
「手は無いのか。あんたを救う手は」
 兄さんにとってこの女性ひとがどれだけ大切な人だったのか。ひしひしと感じて、心臓がわしづかみされたかのように痛い。
「ありがとう、ラテジア。相変わらずあなたはいい子ね」
 剣を打ち合わせている最中とは思えないくらい穏やかな笑みを、ラシェルさんが見せて、それからその笑みが、泣き崩れそうなくらい切なくて優しい表情に変わる。
「でも」
 彼女はゆるゆると首を横に振ったかと思うと、それが嘘のように、ぎんと目をつり上げて、獣の咆哮みたいな気合を吐いた。兄さんの剣が弾き飛ばされ、宙を舞う。瞬間、そちらに注意がそれた兄さんに向けて。
「ごめんね」
 一言そう告げて、彼女は大剣を容赦無く振り下ろす。手加減というものを一切排した刃は、兄さんの右肩から胸にかけてを深く斬り裂いた。
 信じがたい、という表情を顔に満たした兄さんが、ゆっくりとあおのけに倒れてゆく。信じられないのはあたしたちもだ。兄さんが誰かに負けるなんて。岩場に叩きつけられた兄さんの身体から、どくどくと血があふれ出して、あっという間に周囲を赤く染めてゆく。
「……ラテジア?」
 誰もが足を踏み出しかねる中、最初に声を発したのは、エイリーンだった。這うように兄さんのもとへ近づいて、抱き起こす。
「ラテジア」
 自分の服に血の赤が浸透してゆくのも気づかないかのように、エイリーンは呼びかける。兄さんは、渇いた声と共に血を吐いて、エイリーンに視線を向ける。
「すまない……、仇……討てな……」
 そこまでで、兄さんは意識を失って、がくりと首を折った。あたりに響き渡る悲鳴が、エイリーンの喉からほとばしったものだなんて、しばらくあたしは気づけなかった。
「ラテジア、しっかりして、ラテジア!」
 半ば狂ったみたいに兄さんの名を呼び、身体を揺すっていたエイリーンは、近づく靴音に、はっとそちらを仰ぎ見た。
「どいて」
 ラシェルさんが、大剣を手に見下ろしていた。エイリーンは兄さんをかばうように抱き寄せて、さっきまでの怯えが嘘のように、彼女をしっかりと見返す。
「あなたまで巻き込む事になるわ」
「構いません!」
 悲しそうに目を細めるラシェルさんに向けて、エイリーンは毅然と答えた。
「わたしはどうなっても構わない。だから、あなたがラテジアを殺すのだけは、やめて」
 エイリーンの緑の瞳から、ぶわっと涙があふれ出す。
「ラテジアはあなたの大切な人なのでしょう!? 殺しあうなんてやめて!」
 ラシェルさんはしばらく、答えなかった。薄茶の瞳を細めて、エイリーンを長い間――そう感じただけで、実際はものの数秒だったのかもしれない――見つめていたけれど、不意に口元をふっと緩めて。
「ラテジアは、あなたの大切な人なのね」
 エイリーンと同じ台詞を返す。彼女がはっと驚きを顔に宿すと、ラシェルさんは続ける。
「そしてあなたも、ラテジアの」
 その頬を、涙が伝っていた。
「私はそうなれなかった。彼をかばって命を落とし、悲しませた。あまつさえこうして刃を向けて、彼を傷つけた」
 その涙を拭うと、ラシェルさんはゆっくりと剣を鞘に収める。
「あなただけは、その子を悲しませないであげて」
 背を向け肩ごしにそう告げて、彼女は歩き出す。その場を去るために。不満なんだろう、後方でずっと傍観に徹していたグヴィナスが鼻を鳴らすと、
「戦力を殺ぐというあのひとの狙いは果たしました。今はこれで充分です」
 黒竜王相手に、有無を言わさぬ迫力を込めた声色で、ラシェルさんは告げる。まだ納得のいかない様子ながらも、グヴィナスもきびすを返す。
「白竜の残党よ、次はこうはいかぬぞ。我が牙をもって、おぬしも滅ぼしてみせよう」
 挑戦的な笑み混じりの声は、もうエイリーンには届いていなかった。彼女の注意はもう、去り行くふたりよりも、腕の中で青白い顔をしている兄さんに向いていたのだから。
 束縛から解き放たれたかのように、あたしたちも駆け寄った。血の気をすっかり失った兄さんは、浅い息を繰り返す。
 兄さんが死んでしまう。
 その恐怖が、あたしの背中にもべったりとはりついた。兄さんがいなくなったら、あたしは独りになっちゃう。脅威が黒い闇の衣をまとって、心に迫り来る。
「大丈夫です」
 視界まで真っ暗に陥りそうだったあたしを現実につなぎ止めたのは、リサの力強い声だった。
『光の精霊よ、深き傷を癒して深淵へ落ちようとする魂を繋ぎ止めよ』
 第三階層の回復魔法を詠唱する。白い光があたりに満ちたかと思うと、兄さんの傷は流血を止めたようだった。ほっと胸をなでおろしかけるあたしたちだったけれど。
「すみません。私の力では、まだ完全に安心という訳ではないのです」
 リサが申し訳なさそうに言葉を継ぐ。
「すぐに命に関わる状態ではなくなりましたが、傷は完全に塞がった訳ではありません。きちんとした場所で治療を行わなければ」
 それを聞いて、即座に判断を下したのはレジェントだった。
「ナイアのところへ戻り、クライスフレインに運んでもらおう。エリサ姫もついて行って欲しい」
 そして、ナイアティット達の所へ兄さんを連れてゆく役目も請け負ってくれた。本当は、エイリーンが行きたかったんだろうけど、兄さんほどの体格の男の人一人、背負って運ぶのは、いくらエイリーンでもしんどいはずだ。兄さんと同じくらい上背のあるレジェントしか、適役はいなかった。
「送り届けたら、俺はすぐに君たちの後を追う。気をつけて進んでくれ」
 レジェントたちを見送って、クロウと、血濡れのままのエイリーンと、あたしの、三人になった一行は、言いようの無い心細さを感じながら、先へ進んだ。

 道中、魔物に襲われた。
 魔物辞典の中でしか見た事の無い、ただの伝説と思われていた存在、悪魔族デーモンが、何匹も現れた。蝙蝠のような武骨な翼で飛び回る黒い身体は、地上で剣を振るうだけじゃなかなか捉えられない。あたしは、第二階層まで使えるようになった光魔法を放ってデーモンの翼をもぎ取り、岩場に叩き落したところを、クロウとエイリーンが討ち取った。
 デーモンだけじゃない。シェイドも現れた。デーモンにも似た翼持つ格好。双頭の獣のような格好。アンフィスバエナ、と言っただろうか、前にも後ろにも顔を持つ鰐もどきの魔物を連想させる格好。もうこんな場所じゃ、人間の中に擬態して潜む必要も無いからか、自然の摂理から外れた姿をさらけだしていた。
 そいつらを斬って退け、あたしたちは進む。奴らの存在が、この先に待つものがいる事を示してくれる。
 上空の黒い雲は段々と厚さを増してゆく。それに比例して、背筋が寒くなるような邪悪な空気も濃くなってゆく。
 やがて岩場が途切れ、視界が開ける。その途端目に飛び込んできた情報を、あたしの脳はしばらくの間、処理する事を忘れた。
 少しずつ、現状を理解してゆく。
 明らかに人工の、だけど決して現代の手法ではない――恐らくは古代文明のアストラルが造ったと思われる――、一面に何かの紋様が刻まれた、大きな門。その前にたたずむ、黒髪のあのひとが、ゆっくりと振り返る。
「やあ、カラン。きっと来てくれると思ったよ」
 その顔には笑みがたたえられている。
「フェルバーン……さん」
 呼びかけながら、彼の背後にのろのろと目をやる。理解が事実に追いついた瞬間、あたしは心臓が止まるんじゃないかってくらいの驚きに、目を見開いた。
 フェルバーンさんが向かい合っていた門。そこに、縫い止められるように、黒く光る――今は黒だ――魔道剣ルーンブレイドで胸を貫かれて打ちつけられ、ぐったりとしているのは。
 セレンだった。