第9章:命の代価(1)
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 もう、誰も泣かせないって。そう、誓った。

 ふと気がつくと、あたり一帯はどしゃぶりの雨に見舞われていた。
 真っ黒な空からざあざあと音を立てて、雨は降り注ぎ、叩きつける。地面を、その場にいる誰もを。
 何かをつかみそこねたように腕を伸ばしたまま両膝をつくセレンも、あっという間に頭から濡れて、髪から服から、ぽたぽたと水滴をこぼす。
 あたしはあいつのそんな姿を、かたわらから見下ろす格好で立っていた。さっき、地に向かって投げ出されたはずなのに、いつの間にだろう。
 エイリーンも、レジェントも、クロウも、呆然とした表情でセレンを見つめていた。ううん、正確には、あいつの一歩前の空間を。さっきまで、あたしがいたはずの場所を。
 うるさいくらいの雨音にかき消されそうな中、うつむいたまま、あいつが声を洩らす。ああ、とか、うう、とか、言葉にならない、そんな呻き。
 やがてなんとかしぼり出した最初の一言は、
「……カラン」
 あたしの名前だった。
「カラン」
 中途半端に開いていた手を拳の形に握りしめて、ぶるぶる震わせる。その拳で、血が出るんじゃないかってくらい激しく、地面を殴りつける。
「――なんでだ!」
 なんでって。なんで、そんなに血を吐きそうな勢いであたしを呼ぶの。
「あたしはここにいるじゃない」
 話しかけても、あいつにはまるで聞こえていないようだった。なら、肩を叩いて気づかせようと手を伸ばす。その手は、あいつに触れた瞬間、すうっと肩をすり抜けた。
 ぎょっとして自分の手を見やる。それはとても頼りなく透けていて、質感を持っていなかった。慌てて全身を見回す。手だけじゃない。あたしの身体は、ほぼ透明に近い状態になっていた。
 一体全体どういう事か。事態をあたし自身が把握するより先に、答えを述べるひとがいた。
「人間の身で禁呪フォビドゥンを使おうとした報いを受けたな」
 邪気とも呼べそうな黒い光をその身に取り込んだフェルバーンが、悠然とたたずみながら、嘲笑する。
「欠片も残さず消滅したか」
 消滅。透けている自分の手を、唖然と見つめる。
 肉体が消えた、死んだって、事?
 その事実を認識しても、受け入れる事ができなかった。だってあたしはこうして意識を持って、ここにいる。人間は死んだら、この世を離れて天国に昇るんじゃなかったの。
 それとも。あたしは考える。唐突に命を落とした人は、自分の死を認められずにこの世をさまよい続けるというけれど、あたしは今まさにそんな状態なんだろうか。考えは、獣みたいな咆哮で中断させられた。
 叫んだのはセレンだ。途端にあいつの身体から炎が立ちのぼり、火の鳥フェニックスの形を取ってフェルバーンに襲いかかる。不意を突かれたフェルバーンは、舌打ちしながら後ずさった。
「自力で魔法封じサイレンスを破ったか!」
 狂ったみたいに叫びながら、あいつは火球をいくつもいくつも生み出し、フェルバーンに叩きつける。
「だが」
 対するフェルバーンは、うっとうしそうに片手を突き出し、自身に宿った黒い光をそこに集めて盾にする事で、火球を防ぎきった。
「火の鳥の加護を受けたアストラルといえど、アポカリプスには遠く及ばぬよ」
 黒の光が収束する。フェルバーンが嗤った。それだけを合図にして、光は暴風をはらんでこちら側に吹きつけ、セレンたちを容易に後方へとはね飛ばした。
 力の差がありすぎる。あたしにもすぐにそれはわかった。フェルバーンは力を充分に温存している。それだけで、この威力。そして、鳥肌が立つような――実体が無くなってしまったあたしには、それすらもできないけど――とんでもない威圧感。
 これが千年前に世界を危機に陥れた破壊者の力か。抑えていてこれなら、本気を出した時にはどうなるか。想像するだけでぞっとする。
 フェルバーンが再びその手に光を集め始める。このままでは、ここにいる全員が全滅する。死んでしまう。だけどあたしにはどうする事もできない。焦った時、あいつが魔法を発動させる気配がした。エイリーンの、クロウの、レジェントの、あいつ自身の姿が揺らぐ。これは第四階層、転移魔法。
 フェルバーンが光を放ち、あたり一体が漆黒に飲み込まれる瞬間、セレンたちはその場から消えていた。どこへ行ったのか考えようとする前に、あたしの意識も、引っ張られるようにその場から消えた。

 次に気づいた時には、島の東端、ナイアティットたちが待機している場所に、あたしたちはいた。正確には、セレンたちが、で、あたしの姿はナイアティットには見えていないはず。
 あたしたちの後を追って行った国王がセレンと合流したのはともかく、あたしが不在で、しかもいきなり自分たちの目の前に現れた事に、ナイアティットははじめはびっくりしていたようだったけれど、レジェントたちの険しい表情を見て、ただならぬ事態が起こった事は察してくれたらしい。
「すぐにグリフォンを出すんだ」
 セレンがそう声をかける間にも、ナイアティットはうなずいて、部下たちに指示を送る。なので、続けられたあいつの呟きを聞き届けたかはわからない。
「今のオレたちじゃ、アポカリプスを止められない」
 レジェントのガルーダが、騎士たちのグリフォンが、次々と翼を広げる。セレンだけは滞空魔法を使って、自力で飛んだ。ヴァリアラを出て行った後こうしてこの島に向かったんだろうと、今更ながら納得する。
 全員が飛び立ったその時、島全体をまがまがしい黒の光が覆った。アポカリプスを宿したフェルバーンと同じ力だ。上空の気流が乱れ、飛獣が飛ぶのを困難にする。レジェントたちは必死に自分の乗騎を操り、高度を保とうとする。
 そこに、黒い光の筋が島から襲い来た。セレンが振り返り、炎の壁を作って、いくつかの軌道をそらさせるけれど、いかんせん数が多く速さも相当だ。全部を防ぎきる事ができず、そのうちのひとつが、クロウの乗るグリフォンを撃ち抜いた。
「クロウ!」
 あっという間にグリフォンが失速し飛ぶ力を失い、落ちてゆく。レジェントが叫ぶ。セレンが追いかけようとしたけれど、放たれる光から残る者たちを守るので精一杯で、助けられない。クロウは島を覆う黒い光に呑まれて、姿が見えなくなってしまった。
「――陛下」
「振り返るな!」
 ナイアティットが何かを言わんとしたのを、レジェント自身がさえぎる。
「今は、自分自身が生き残る事だけを考えるんだ!」
 本当は、誰よりも自分が引き返して部下を助けたいだろうに、彼はあえて厳しく言い放ち、言葉通り振り返らなかった。
 島が鳴動する音が聞こえる。上空を覆う暗雲が、空いっぱいに、世界中に広がってゆく。
『我はアポカリプス。世界の破壊者』
 フェルバーンの、いや、彼に宿ったアポカリプスの声を、その日、世界中の人が聞いたという。
『安穏と暮らして来た愚かな人間ども。我が存在を恐れ、我が力の前にひれ伏し、そして、滅びるがいい』
 その日、世界は。
 破滅へのカウントダウンを始めた。