第9章:命の代価(2)
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「貴様のせいだ!」
 怒声と、ばきり、とかなり痛そうな音と共に、セレンが二、三歩よろめいた。殴ったのは、兄さん。まだ身体に巻かれたままの包帯が痛々しいけれど、あいつも殴られて口の中を切ったか、つっと血の筋が唇の端から伝う。
 クライスフレインに帰りついた皆を、サイゼルさんとアリミアとリサと、一命をとりとめた兄さんが出迎えた。皆、クロウとあたしがいない事にすぐに気づき、そして、経緯を聞いた兄さんは度を失って、セレンに殴りかかったのだ。
 黙って唇をかみしめ、赤い――こちらがアストラルとしての本来の色だったんだろう、赤いままの――瞳になんら感情を乗せないで、ただ兄さんを見つめ返すばかりのあいつに苛立ったに違いない。その襟首を兄さんはつかみあげて、壁に強く押しつける。
「貴様の身勝手な行動のせいで、カランは!」
 二発、三発。また拳が振り下ろされる。
 やめて兄さん。やめて。あたしの声は届かず、腕をつかんで止めようとしても、手はすり抜けるばかり。
「やめろ、ラテジア!」
 あたしのかわりに兄さんを制止したのは、レジェントだった。兄さんは、ぎんと彼をにらみ、それから、
「……何故だ」
 力無くずるずるとへたりこみ、頭を抱える。
「カランも、ラシェルも……何故、こんな事に!」
 こんなに怒って、こんなにもショックを受ける兄さんを、初めて見た。誰も兄さんにかける言葉を見つけられない。兄さんにだけじゃない。誰も彼もが、お互いに交わす言葉を見出せないで黙りこくっている。アリミアだけが静かにすすり泣く声が、部屋に満ちた。
 アリミア、ごめん。帰って来たら、旅の話をして、歌を聴かせてもらうはずだったのに。約束破ってごめん。
 レジェントはさっき、ミーネさんにも遣いを送っていた。クロウが行方不明になった事を知らせたんだろう。それを聞いた彼女がどんな反応を見せるか。どんな表情をするか。考えたくもなかった。
「陛下」
 騎士が一人部屋に入って来て、レジェントに何かを耳打ちした。
「世界中に放っている密偵から、同じような報告が届いた」
 彼が退出した後、レジェントが皆に向き直り、報された事項を伝える。
「世界の地形が変わっているらしい。山だった場所が断崖になったり、海だった場所に大陸と言える大きさの陸地が現れたり、挙げたらきりが無いそうだ」
 皆が驚きの表情を浮かべる中、レジェントは続ける。
「世界の中心には結界のようなものが張られ、近づけなくなっている。また、各地に影(シェイド)がはびこり、魔物も凶暴さを増しているとの事だ」
 それはまるで。
「千年前の再来……」
 エイリーンが皆の思いを代表するように呟いた。レジェントがうなずき、言葉を継ぐ。
「こんな時こそ、ガゼルのアスター殿と情報を交換すべきなのだろうけど、クライスフレインのカバラ支店から本社へは連絡が取れなくなっているらしい」
 彼は皆を見渡し、努めて平静を保った声色で告げた。
「とにかく皆、心身共に落ち着くことが先決だ。今は何も考えずに休んでくれ」
 その言葉を合図にして、サイゼルさんが、エイリーンが、静かに部屋を出てゆく。ナイアティットが、アリミアの震える肩を抱いて自室に戻るよううながす。リサがレジェントに目礼して退出し、兄さんはものすごく怖い目でセレンを睨んだ後、部屋を後にした。
「セレン、君も休んだ方がいい。君の力だって無尽蔵な訳ではないだろう」
 最後に残っていたあいつにレジェントが声をかける。頬の腫れももうだいぶ引いていたあいつは、今更気づいたみたいに口元の血をぬぐってから、レジェントに軽く頭を下げて、部屋を出て行った。

 アリミアの歌が聴こえる。
 悲しい旋律、それは鎮魂歌レクイエム。クロウとあたしに向けたものだ。
 だけどアリミア、ごめんね。あたしの魂は鎮められてない。こうしてさまよってる。クロウだって、どうなっているかわからない。
 アリミアの声はやがて、涙を含んで震え、歌を途切れさせる。その場に膝を抱えてしゃがみこみ、声を殺して泣き出してしまう彼女の姿を窓際から見つめた後、あたしはアリミアの部屋を離れた。
 他にも気になるひとがいるから。
 セレン。セレンはどうしているだろう。またひとりで思いつめて、何か突拍子も無い行動に出やしないかって、心配だった。
 扉を開ける動作も必要としない身体なので、誰にも気づかれないまま、扉をすり抜けて、あいつの部屋に入る。もう日が暮れているのに、あいつは灯りひとつつけないまま、ベッドに横になっていた。眠っているのかと思ったけれど、近づいてみたらごろりと寝返りを打ってあおむけになったので、少しびっくりする。
「……カラン」
 あいつの口から、あたしの名前が洩れる。
「……ごめんな」
 続いて、謝罪が。
「オレが、ひとりでカタをつけようと思わなかったら」
 いや、違う。ってひとりで呟いて。
「もっと早く記憶を取り戻してたら。奴の正体に、気づいてたら」
 片手で目を覆い隠して、唇をかみしめる。つっとひとすじ、涙が伝う。
 ごめん、カラン、ごめん。小さく弱々しく繰り返される、あたしの名前と、詫びる言葉。あたしこそごめん、って返したかった。皆を悲しませた。アリミアを、セレンを泣かせた。本当にごめん。でも、もうそれを伝える機会も手段も無い。
 いたたまれなくて部屋を出て行こうとした、その時だった。また何かに憑かれたんじゃないかと勘違いするくらい、勢いよくがばっとセレンが飛び起きた。しばらく赤い瞳を見開いて、硬直していたんだけれど。
「……エリュシオン……」
 不意に、あたしの知らない単語を口にする。
「来てるのか? こっち側に」
 まるで求めるものがそばにあるかのように周囲を見回していたあいつは、やがて、意を決したようにベッドから飛び降りると、手早く手荷物をまとめた。その荷を負って、マントを羽織って、窓辺に近づく。
 何をしようとしているのか、答えはわかってる。どこへ向かうのかがわかんないだけで。だけど、止める事は今のあたしにはできない。ただ見失わないように、ついて行く事だけしか。
 部屋の窓から滞空魔法で飛び立つあいつを追って、あたしも意識を飛ばした。

 セレンは飛んでゆく。南へ、南へ。
 時折、転移魔法を交えながら移動するので、普通に追いかけていたら絶対に見失うだろう。けど、今のあたしは、あいつについて行きたい、そう思うだけで、後を追う事ができた。
 いくら魔力に優れているといっても、レジェントの言った通り、アストラルの魔力も無尽蔵ではないんだろう。クライスフレインを発った時に昇り始めていた月が南中した頃、あいつはフラフラと森に降りてゆき、肩で大きく息をしながら、大きな木の幹に身体を預け、ずるずると崩れ落ちた。
 今日はここで休む事に決めたらしい。あいつは周囲の木の枝を集めて火をおこした。いつものように、燃焼材を必要としない、自分の意志で燃え続ける炎じゃなくて、わざわざ枯れ枝を集めたのは、恐らく、寝たりして意識が途切れてしまったら、火が消えちゃうんだろう。
 全身をくるむようにマントを羽織り直して、あいつは同じ色の瞳で炎を見つめる。しばらくした頃、ぱきり、と地面の枝を踏みつける音が聞こえて、あいつの周囲を何か剣呑な空気が取り巻いた。獲物を求める飢えた魔物じゃない。ぎりぎりまで気配を忍ばせて近づいてきたこれは、シェイドだ。
「やめとけよ」
 だけどあいつは少しも動揺を見せず、炎から目をそらさないまま、姿の見えない影たちに向かって少しだけ声を低めて告げた。
「もうデュアルストーンは持ってない。オレに用は無いだろ。どうしても戦いたいなら、相手するぜ。一瞬で消し飛ばされたいならな」
 言ったセレンの身体から、火の鳥フェニックスの赤い炎が立ちのぼる。それで相手の実力をはかり、怖じ気づいたのか。それとも本当に、デュアルストーンを持たなくなったあいつには用が無いのか。はたまた他の理由か。どれかはわからないけど、とにかく、影たちはざわざわと狼狽する様子を見せた後、ひとつ、ふたつ、と、気配を消してゆく。そして完全に、影はいなくなった。
 その後もしばらく、セレンは周囲に注意を配っていたけれど、やがてうつらうつらと舟をこぎ、そのまま眠りに落ちた。
 剣を握れない身体だから、何かが来ても撃退する事はできないけど、あいつの睡眠時間を邪魔するものがいないか見ている事くらいはできるだろうと、あたしはたき火をはさんだ反対側に腰を下ろす。
 だけどあいつの眠りは、外じゃなくて内からおびやかされた。次第に苦悶の表情を浮かべて、小さくうなり声を洩らしはじめる。
 うなされているなんて、どんな夢を見ているんだろう。少しでもやわらげる事ができないかな。そう思ってあいつの隣へ行き、肩に手を置いた時。
『この子は、この子は私の子です! アストラルです!』
 聞こえてきたのは切実な女の人の声。垣間見えたのは、赤ん坊を抱いて泣き叫ぶ、長い赤の髪に赤い瞳を持つ、その声の主。
『どうしてそんなに簡単に、あなたの孫を道具のように言えるのですか、お父様!?』
 これはセレンの記憶? ううん、それよりも前。遺伝子とやらに刻まれている記憶から始まってる?
 それらの情報が奔流になって、あたしのもとへと押し寄せた。