第9章:命の代価(3)
BACKTOPNEXT

 赤茶けた大地。噴煙を上げる火山。その光景は、ガラス板一枚を隔てたような感覚であたしの眼前に広がった。
 荒れた山あいの道に、倒れている男性がいた。セレンがあと数年分歳をとったらこんなふうになるだろう、という整った顔立ちをしたその人の旅装はぼろぼろで、折角の金髪も薄汚れている。
 そこに、道の向こうからやって来る人影ひとつ。赤い髪に赤い瞳を持つ、さっきセレンに触れた瞬間に見えた、あの女性だった。
「大丈夫ですか、しっかりして!」
 女性は男の人に駆け寄り、その上体を抱き起こす。男性は軽く呻いた後、褐色の瞳を開いた。
「ここは……」
「火のアストラルの里、シエナ・アイトです」
「火の、アストラル……?」
 男性は、焦点の定まらない目でぼんやりと辺りを見回していたけれど、やがて、両手でのろのろと頭を抱えて。
「私は何故、このような所に?」
 その言葉に、女性ははっと弾かれたように息を呑み、それから、
「あなたは人間ね?」
 ああ、と洩らす。
「時折こちら側に迷い込む人間がいるとは、知っていたけれど。まさか、人間がこちら側と向こう側の境を越えるには、代償に記憶を失うという話も、本当だったなんて」
 たちまち赤い瞳が潤み、ぽとぽとと涙がこぼれ落ちて、男性の頬を濡らした。
「何故、あなたが泣くのか」
「だって」
 問いかけに女性はふるふる首を振り、涙声を紡ぎ出す。
「あなたは、故郷に戻る術どころか、その故郷の記憶も、待っているかもしれない人たちの記憶すら、失ってしまったのでしょう?」
 とめどなく涙をこぼしながら女性は続ける。「可哀想で」
 すると、すっとのばされた手が女性の頬に触れ、流れる涙をぬぐった。
「私は哀れなどではない」
 男性が唇の端にうっすらと笑みを浮かべて、女性の赤い瞳をのぞきこむ。
「こうして私のために、泣いてくれるひとりがいるのだから」
 女性はたちまち涙も引っ込んで、耳まで赤くなったかと思うと、告げるべき言葉を探しているんだろう、不自然に視線をさまよわせる。
「……ステラ」
 やがて彼女は、ぽつりと、自分の名を呟いた。
「私は、ステラ・アヴリル・リグアンサ」
「ステラ」
 男性もその名を口の中で繰り返す。
「綺麗な名だ」
 そうしてしばし黙考して、思い当たるところがあったらしい。
「レグルス・レイデン」彼は名乗った。「名前だけは、覚えていたらしい」
「レグルス」
 男性と同じように、相手の名前を自分の口から呼んで、ステラと名乗った女性は柔らかい笑みを浮かべた。
「素敵な名前ね」

「許さん」
 赤い髪と瞳を持つ老人は、ひとにこれ以上できるのかというしかめっ面で、並び立つステラとレグルスに向けて言い放った。どうやら、ふたりの出会いからそれなりの時間が流れた後らしい。
「どうして、お父様!?」
 ステラが戸惑いを込めた表情で、お父様と呼ぶ老人につめ寄る。
「レグルスは、シェイドと戦って、私たちを守ってくれる力を持っている。もう立派なシエナの一員でしょう」
「だが所詮人間だ」
 老人はにこりともしないで、自分の娘に辛らつな言葉をたたきつけた。
「仮にも火のアストラルの長の娘が人間ごときと恋に落ちたなどと、どの面下げて、一族の者に、ましてや他のアストラルに言えるものか」
 ステラがひどくショックを受けた様子で、一歩、二歩後ずさる。その肩を優しく叩いて、安心させるように笑みを向けたレグルスは、すぐにその笑みを消して、老人と真正面から向かい合った。
「どうあっても認めてくださらないのでしょうか、ハヴィッツ様」
「こうして貴様と口をきくだけでも、儂のプライドを切り崩し、相当の妥協をしてやっているのだと、重々思い知れ」
 ハヴィッツと呼ばれた老人の眼光鋭い赤い瞳を、レグルスは怯む事なく見つめ返す。しばらくにらみ合う時間が続いた後、先に口を開いたのは、ハヴィッツの方だった。
「だが、貴様がアストラルに並び立てるのだと証明すれば、考えてやらなくもない」
 レグルスとステラがほっとした表情を交わす。だけど、続けられた台詞にその表情もすぐに凍りついた。
「スルト火山に棲む八頭竜ヒドラ。貴様一人で奴に挑み、首でも尻尾でも目でも牙でも構わん。倒したという証拠を持ち帰ったら、アストラルと同等の力を持つとみなしてやってもよい」
 ヒドラは、空想上の魔物としてカバラ社の魔物辞典にも載っている。竜の名前はついているけれど、純粋な竜族とは異なる生態を持ち、八つそれぞれの口から灼熱の炎を吐き出す、すごくすごく危険な、実在したら、人間が手を出しちゃいけないような魔物だって。そんな魔物と人間一人で戦えだなんて、死んで来いって言ってるようなものじゃない。ハヴィッツの言う事は無茶苦茶だ。
 それでもレグルスは、ステラが何か異論を発しようとするのに先じて、口を開く。
「わかりました。それで認めていただけるなら」
 おろおろするステラの隣で、レグルスはあくまで平静を保って深々とハヴィッツに頭を下げると、すぐに出立した。シエナ・アイトを出て行こうとして、里の出口でステラが追いつく。
「レグルス、やめて。お父様の言いなりになって、命を落としにゆくつもり?」
「むざむざ死にに行く気は無いさ」
 背中にすがりつくステラに向け、レグルスは穏やかに返して、向き直り、彼女の肩を抱き寄せる。
「だが、万一、私が戻らなかった場合は」
「そんな事、聞きたくない」
「聞いてくれ、どうか」
 いやいやをするように首を横に振るステラの肩に両手を置いて、まっすぐに彼女を見つめると、その手の片方をステラのおなかにあてた。
「その時は君がこの子に、セレンという名を与えてやってくれ。男の子でも、女の子でも」
 ステラはレグルスの褐色の瞳を見つめていたけれど、やがて赤い瞳を潤ませて、すがりつくようにレグルスを抱きしめる。レグルスも抱擁を返して、そうしてふたりは別れた。ステラは、シエナ・アイトに吹きつける風に赤い髪を遊ばせて、レグルスが道の向こうに見えなくなるまで、ずっと見送っていた。

 それからステラは毎日、里の入り口に立って、レグルスの帰りを待っていた。
 だけど、一日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎて。一ヶ月、三ヶ月、ついに半年過ぎても、レグルスがステラのもとに帰って来る事は、無かった。
 彼の存在はそのまま、ほんの一時迷い込んだ人間として、火のアストラルたちの記憶の中では、過去にされて、存在も抹消されるはずだった。
 セレンが、生まれなければ。

 ハヴィッツは、自分の娘と、その腕の中の、孫にあたるはずの子を、とてつもなく汚らわしいものを見るような目で見下ろしていた。
「純血のアストラルと下等な人間の子など」
 それが彼の本音なんだろう。心底からうとましそうに。
「厄介な半端者を」
「この子は、この子は私の子です! アストラルです!」
 赤ん坊のセレンを抱いたステラは、赤い瞳からぽろぽろ落涙しながら必死に父親に訴える。
「アストラルだと言うのなら」ハヴィッツはにこりともせずに宣告する。「それ相応の役目を背負ってもらおう」
 続けられた言葉に、ステラはますます蒼白になって、色を失った唇を震わせた。
「影が数を増している。アポカリプスの復活が近いのやもしれん。それには火の鳥フェニックスの力を宿らせる。いずれ火のデュアルストーンを守る者として、戦わせる」
「そんな……」
 ステラはよろめき、危うく倒れこみそうだったのを必死に踏みとどまって、何も知らずにすうすう眠る赤ん坊にのろのろと視線を落とし、それから、ハヴィッツをぎんと睨みつける。
「それ、だなんて。そんな過酷な役目を背負わせるなんて」
 彼女の悲痛な叫びがあたりに響いた。
「どうしてそんなに簡単に、あなたの孫を道具のように言えるのですか、お父様!?」

 そうして、過去の情景が流れてゆく。
 シエナ・アイトでのセレンの人生は、決して幸せなものじゃなかった。
 愛する人を失い、息子の運命を嘆いたステラは、日に日に弱って、セレンが物心つく前にその命を終えてしまった。
 守ってくれるひとのいないセレンに容赦なく降り注ぐ、火のアストラルたちの、好奇と侮蔑の目。目に見えて仲間はずれにする子供たち。ごくまれに、手を差し出してくれるひともいたけれど、それは本当にほんの一握り。大半のアストラルは、あいつを半端者とみなして、関わろうとしなかった。
 だからあいつは、誰にも頼らずに生きてゆけるようになろうと、膝を抱えて泣く暇があったら、強くなる事を考える。自分の中に刻まれたアストラルの知識を最大限に活かして、詠唱無しで魔法を使えるように。魔道剣で立ち回れるように。その身に宿る火の鳥の力を持て余さず、充分使いこなせるように。
 やがてある日、ハヴィッツがセレンを呼び出した。火のデュアルストーンが埋め込まれた魔道剣ルーンブレイドを取り出し、あいつに押しつけて。
「アス・アイトが滅びた」
 それが闇のアストラルの里の名前である事を、流れ込む情報の中であたしは知る。
「純血の闇のアストラルの仕業だという。それがデュアルストーンを持ち出し、影すら操り始めた」
 肉親の情愛なんてこれっぽっちも含めない、あくまで事務的な声色で、ハヴィッツはセレンに告げる。
「火のデュアルストーンを守り、そやつを倒せ。シエナ・アイトを巻き込まぬ場所で」
 それは、出て行け、そして二度と帰って来るな、という宣告。だけどあいつは父親と同じように、甘んじてその命令を受ける。レグルスと同じように落ち着いた表情で魔道剣を受け取り、ハヴィッツに深々と頭を下げ、そうして、シエナ・アイトを出て行った。

「己の運命を呪った事もあるのだろう?」
 嘲笑うような――実際そうなんだろう――聞き覚えのある声。
「僕もだよ。何故、純血の一族に生まれたばかりに、アポカリプスの封印を守る使命を課され、常に影の襲撃に怯えて生きねばならなかったのかと」
 黒髪に黒い瞳。フェルバーン・ロキ・イスカリオは、身に宿す死神ハーデスの力で、セレンを追いつめていた。
「ならば、と思ったのだよ」
 陶酔するように両腕を広げてフェルバーンは言う。
「いっそ自らその封印を解いて、破壊者を受け入れ、こんな理不尽な世界など壊してしまえばよいのではないかと、ね」
「神にでもなる気か!?」
 闇の波動に身体のあちこちを斬り裂かれたあいつは満身創痍で、だけど赤い瞳から力を失わず、しっかと地に足を踏みしめて、相手を睨み返している。
「神」
 それを聞いたフェルバーンは、一瞬きょとんとした後、
「そうだな、これは神の意志かもしれない」
 にやりと口元を歪める。
「滅びは、この世界が背負った業なんだよ」
 フェルバーンの帯びる闇が勢いを増した。次でとどめを刺すつもりだ。
「さあ、命が惜しくば火のデュアルストーンを渡したまえ。もっとも、死体から受け取っても構わないんだがね」
 セレンはじりじりと後ずさり、それから、唐突に術を発動させた。情報が流れ込んでくる。これは第五階層。隔たれた世界の狭間に道を作る、アストラルの中でも力の強い者にしか使えない魔法。
 生じた空間の揺らぎにセレンは飛び込み、そうして、姿を消した。
「……向こう側へ逃げたか」
 フェルバーンはいまいましそうに舌打ちし、それから、唇をつり上げる。
「まあいい。楽しみが先に伸びただけだ」
 どうせなら、向こう側にいるだろう邪魔者を全て排除し、石もこの手に。そんな邪悪な考えが、ひしひしと伝わってくる。
 フェルバーンはすっと片手をかざした。即座に、人型をした影が現れ、彼の足元にひかえる。
「あれを追え」
 その一言で、影はこちら側と向こう側の境を越えた。恐らくこの後に、あいつがルグレット平原に落ちて来て、あたしがそれを見つけ影と戦った。そこに繋がっていくんだろう。
「その間に、人間どもの世界をゆっくりと楽しむとするか」
 ふっ、と笑声を洩らすフェルバーン。その笑いは次第に大きさを増し、あたり一帯に響く哄笑となって、いつ果てるともなく、続いた。