番外編1『懐かしの子守唄』
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 あるうららかなクライスフレインの昼下がり。
 楼閣の渡り廊下を歩いていたセレンは、前をぶらぶらゆく人物を見つけた。
 小さめの背格好に、黒のポニーテール。
「カラン」
 彼女の名を呼んでみたが、反応は無い。呑気に歩いているばかりだ。
 前から見ずとも、彼女であると判断できる特徴は心得ている。人違いのはずは無い。再度呼びかける。
「カラン」
 返事、無し。
 無視かよ。少々苛立ちを覚えて、早足で近づき肩をつかむ。
「おい、返事くらいしろよ」
 すると、「ひゃっ」と高い驚きの声をあげて、ようやくカランは振り返った。
「ちょっと何よ、びっくりするじゃない」
 言いながら彼女は、耳から何かを外した。初見、耳から細い線でも生えているのかと思ったそれは、耳の穴の形に上手く適合している、キノコにも似た耳栓のようで、そこから伸びる線は、彼女の上着のポケットに繋がっている。
 なんだ、これ。
 セレンが疑問を口に出す前に、訊かれる事を予測していたのだろう、カランは答えた。
「あ、これ? 携帯型音楽プレイヤー」
 ポケットから、バウンサカードよりも二周りほど小さい、カード型の物体が出て来る。
「ガゼルで買ったの。十曲無料転送サービスつきで定価の半額だったから、三十曲も入れてもらっちゃった」
 好きな曲のデータをカバラの端末からこれに転送してもらって、このイヤホンを耳につけて、音楽を聴くのね。カランはそうあっけらかんと説明する。
 音楽を聴きながら道を歩くなど、さっきのように周囲に気づかず、注意力散漫になって危ないのではないか。定価がいくらか知らないし、金に困る旅はしていないが、一体いくら財布から飛んでいったのか。そもそもあれだけの騒動があったガゼルで、いつの間にこんなものを購入していたのか。
 突っ込み所は絶えず、セレンが眉間をおさえてひとつため息をつくと、カランはむっとして、音楽プレイヤーをずいっと突きつけてくる。
「あ、馬鹿にしてるでしょ。ならば聴いてみるがいい!」
 問答無用で、イヤホンとやらがセレンの両耳に飛び込んでくる。と同時、ハスキーな女声の旋律が、頭の中で演奏されているのではとばかりに響き渡った。
「〜〜〜っ!?」
 びっくりして、言葉にならない声をあげ、思わずイヤホンを抜き取る。
「なんだこれ、どうしてこの辺で聴こえるんだ!?」
 この辺、と頭を指差してセレンがうろたえると、
「そういう風にできてるからだよ」
 と、カランは笑い転げた。
「見事に初心者の反応! まあ面白いから、ちょっと聴いてなよ」
 言われて、恐る恐るイヤホンを耳に戻す。女性の歌声はまだ続いていた。
「レイテル・キャラックって、カバラ社所属の有名な女性歌手だよ。フェリオの店で聴いたでしょ」
 歌声に混じってカランの説明が聞こえてくる。
 そういえばザスのフェリオの店にいた時、「音楽があるとムード出るでしょ」と、女将から円盤状の板を渡され、この音楽プレイヤーよりはるかに大きくてどっしりしたプレイヤーに読み込ませると、店中に歌が流れて、驚いたものだった。
 その時聴いたのもこの女性の声だった気がする。あの選曲は、フェリオではなくカランの趣味だったのかもしれない。
 レイテルの歌声は、決してソプラノ歌手のような、耳を洗う透明感に満ち溢れたものではない。だが、腹の底から声を絞り出し、高く、低く、メリハリをつけ、相手の胸に深く沈み込む強い力をもって、迫って来る。
 すっかり聴き入っていると、一曲が終わり、次の曲が始まった。またレイテルの歌だ。だが、さっきまでの曲とは調子が違う。ギター一本の演奏にあわせて、しっとりと歌いあげている。
 それを聴いていると、何故かセレンの心がざわついた。レイテルの声が遠くなり、代わりに、同じ歌詞を細く優しい声が歌っているのが聴こえて来るる。
 視界が転換する。
 ぼんやりとしか見えないどこかの家の中。小さな手を必死に伸ばす先には、赤い髪の女性。その顔は全くわからないけれど、「懐かしい」という感覚が訪れて……。
「――セレン?」
 はっと気づくと、幻は消え去り、怪訝そうにこちらの顔をのぞき込むカランの顔が眼前にある。耳に届く歌声も、レイテル・キャラックのものだ。
「何、ぼうっとしてるの。そんなに気に入った?」
「あ、ああ、いや」
 今の自分の体験をどう説明したものか戸惑い、結局説明する事を諦めて、確認したい事だけを相手に訊く。
「これ、何て曲だ?」
 イヤホンを片方差し出すと、カランは「いきなりどうしたの」と訝りながらもそれを受け取り、しばらく聴いて、「ああ」と声をあげた。
「『無題子守唄』とかいったかなあ。すごい昔からあるっていう、誰でも知ってる子守唄だよ。レイテルがこんなオーソドックスなもの歌うのって珍しいなあと思って、転送してもらったの」
「そうか」
 短く返事をして、セレンはその曲に聴き入った。カランは、何故これがそんなに意中の曲であるのか、腑に落ちない様子でこちらを見ている。
 セレン自信も納得した訳ではない。だが。
 自分はこの曲を知っている、という確信めいた予感が、心の底に生まれていた。失われた記憶のどこかに、この曲が眠っている。
 そしてそれを自分に向けて歌ってくれた人は、恐らく。
「……母さん?」
 誰にも聴こえないように呟いてみせるが、当然返事が戻る事は無く、渡り廊下を吹き抜ける秋の風にさらわれて、消えてゆくばかりだった。