番外編2『仮面の下』(前)
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 あなたを想っている。
 それだけは真実だった。

 幼い頃の大切な思い出。
 父に連れられて王城を訪れ、父の仕事が終わるのを待つ間、一人で城内を巡っていたところ、菫の紫が咲き乱れる中庭で出会った少女。
『あなた、お名前は?』
 そう訊ねて小首を傾げる所作にあわせて流れる、美しい水色の長い髪。何の後ろ暗さも無くまっすぐに自分を見つめてくる、碧の瞳。
『素敵。将来の騎士にお似合いの名ね』
 そのまぶしい笑顔に、一瞬にして心奪われた。

 意識が現実に引きずられる感覚を、重苦しく、多少煩わしくすら感じながら、ハルト・シュバルツは目を覚ました。
 目を、覚ましたのだ。二度と目覚める事など無いと思っていたのに。
 何故か視界が狭い。節々が痛む身体をゆっくりと起き上がらせると、そこはいつも馴染んだ王城の自室ではなかった。木のベッドと質素な家具が置かれた、どこかの狭い小屋の中。今は夜なのだろう、ランプの炎がちろちろと室内を照らし、窓の外は真っ暗だ。
 その窓に映る自身の姿を見た事で、彼は自分の視界が閉ざされている理由を知った。顔の半分を覆う白い包帯が、左目を隠していたのである。
「ああ、兄さん、気づいたかい」
 ハルトが身を起こす気配を感じたのか。この小屋の主だろう老人が部屋に入って来た。
「ここは……」
「ハミルからちょいと離れた、村とも呼べん名も無い集落だよ。川で釣りをしてたら、あんさんが流れて来たものだから、そらあびっくりしたさ」
 王都から少しばかり離れているだけの割には言葉の訛りが強い。地方から出て来た者なのだろうか。そんな事を考えた後、ハルトは思い返す。何故、自分はこのような場所にこのような怪我を負っているのか、と。
 その途端、水が湧くごとく記憶が蘇る。だがそれは新たな清い泉の生成ではない。ただどくどくと溢れ出る、泥水だ。
 シェイドに憑かれ、女王に刃を向け、国の宝を奪い、全てを失って、塔から身を投げた。
 そう、全てを失ったのだ。騎士としての地位も、信用も。あの女性ひとのまっすぐで無垢なまでの愛情も。
 いや、はなから裏切るつもりだったのだ。そもそも最初に彼らが裏切ったのだ。

 父は王家の忠実な家臣であった。王に心からの忠誠を誓い、国の発展とより善き施政に心を砕いた。
 だが、あまりに優秀で善良な父は、権謀術数渦巻く宮廷では異質で、己の権力と財力を増す事ばかりに執着し、他人への関心と云えばあげ足を取り互いを蹴落とす事にしか興味の無い、他の廷臣たちには、非常に鬱陶しい存在に見えたに違いない。
 父は王家への反逆を企てたという罪で投獄された。根拠など一切無い、誰かがでっちあげた、完全なる冤罪だった。
 裁判はやたら迅速に行われ、即座に極刑が下された。父を救おうとする善意ある者が行動を起こせない内に全てを済ませようとする悪意の結果だと、幼くとも利発なハルトには、醜い感情が形として見えそうなほどによくわかった。
 国王は何もしなかった。見せ物のように家族が傍聴席に引き出された裁判の席で、王は、己の忠臣が切々と無実を訴える様を目にしながら、この馬鹿げた茶番を止めようともしなかった。この国で最も権力を持つ男は、耳元で囁きかける愚かな家臣どもの讒言ざんげんに頷いてばかりで、父の言葉には一切耳を傾けようとしなかった。
 大黒柱を理不尽に失った一家は瞬く間に没落した。母は悲しみのあまり精神を病んで、自らの喉を短剣でかき切った。
 使用人たちは次々と屋敷を去り、残された罪人の子供に手を差し伸べてくれる縁者もいやしなかった。
 突然底辺に叩き落とされた少年は、腹を空かせて泣き叫ぶ弟妹の手をしっかと握って、這いずってでも生き残る事を決意する。憎むべき愚かな連中と、彼らの言葉を疑いもしなかった愚かな王に、復讐するために。
 そのために、引き取られた孤児院でがむしゃらに勉強した。貧民街に出入りする剣士に頼み込み、出世払いを約束して剣を教わった。今思えば、後ろ盾無く先行きも明るくない孤児のそんな口約束によく請け合ってくれたと思う。それだけハルトの誓願に鬼気迫るものを見たのだろう。
 弟妹を孤児院に残し、ランバートンの騎士になった。近衛を、復讐の相手に最も近づける地位を目指して。
 真意を悟られてはいけない。心の奥でぐつぐつと煮えたぎる激情を殺して、あくまで、大罪を犯した親の汚名をすすぐべく、忠実に貞淑に振る舞う騎士の仮面をかぶって、信用を得る。その陰で、暗殺者を雇い、王の周りの愚かしい人間たちを、不審を抱かれない程度に、尻尾をつかまれないよう慎重に、少しずつ消していった。
 そうして王のそばに近づけるだけの信用を得た時、しかし、最も復讐を遂げたい相手はこの世を去り、代わりに玉座にはあの少女が就いていた。
 彼女はかつて会った事を覚えていた。頬を染め、碧の瞳をきらきら輝かせて、若き近衛隊長に信頼を寄せた。その視線が信頼以上の感情を抱いている事に、聡いハルトはすぐに気づいた。
 彼女の笑みが、心を揺るがした。なんの陰りも無く名を呼ぶ涼やかな声に、決して鎮まる事は無いと信じていた復讐の念が萎える。労いの言葉と共に添えられた白い御手は、怒りの炎を燃やす事の虚しさすら覚えさせた。
 好意を寄せる相手に対して同じ想いを抱くのに、そう時間は要らなかった。このどす黒い思いを封印して、彼女の真の騎士として人生を捧ぐのも、またひとつの道なのかもしれない。そう考え始めた頃。
『影が君に力を与えよう』
 誘惑したのは、心に抱える闇よりなお暗い、漆黒の瞳。
『そのような苦しみを、一人で抱えていてはいけない。これは私怨ではない。君の正義が、裁かれなかった卑怯者たちを裁くのだ』
 その言葉は決定的にハルトの背中を押し、闇へと突き落とした。

 冷静に考えられる今ならわかる。これは人として越えてはいけない一線だった。全てを失った、それは当然の報いだ。
 驚愕と失意に満ちた碧の瞳を向けてきた彼女は、何を思っているだろう。裏切りに涙しただろうか。それとも、あの美しい顔を怒りに歪めて、罵りの言葉を唇からこぼしただろうか。
 彼女は憎悪の対象となり得なかった。今でもなお、案ずる気持ちが先に立つ。
「ハミルは」
 その質問は、ハルトの口からごく自然に洩れた。
「今どうなっている」
 青年の突然の問いかけに、老人はしばし虚を突かれたようにぱちぱちとまばたきをしていたのだが、やがて答える。
「どうも何も、ハミルだけじゃあなくて、世界中が大変な事になっとるよ」
 ハルトが顔を上げ視線を向けると、老人は肩をすくめて。
「世界中に魔物とは違う怪物がはびこって、街や村を片っ端から襲ってるそうな」
 魔物とは違う怪物。影だ。直感的にそう思い至る。
「王都も何度か襲われたさ。まあ、伊達に魔法王国じゃあないから、守ってきたらしいけんど、さすがにいつまでも保つもんじゃないだろうなあ」
 まるで他人事のように呑気に老人は語るが、ハルトは腹の底が抜けるような薄ら寒さを覚えた。国ではなく、あのの笑顔が永遠に失われる喪失感に。脳裏には、今にも泣き出しそうな彼女の姿が鮮やかに浮かぶ。
 守らねば。
 その思いが彼を駆り立て、気がつけばベッドを降り、そして小屋を飛び出していた。
「お、おいあんた、どこへ行くだよ!」
 慌てふためいた声が背中を追いかけて来る。傷を負い、ずっと眠りっぱなしだった身体が、突然の運動を強いられてぎしぎしと悲鳴をあげる。
 足は、小屋を出ていくらか走ったところで歩きに変わり、次第次第にのろのろと速度を落として、そして止まった。
 今更どうする。嘲笑する自分が胸中にいた。
 戻るのか? 何食わぬ顔をして。
 守るのか? 一度は本気で刃を向けた相手を。
 穏やかな笑顔の仮面の下で、薄暗い思いを抱いて、あなたに忠誠を誓うと舌に乗せた。
 顔向けなどできようはずが無い。だが、心の中では、憎しみより先立つものがある。それは間違いなく、彼女への愛おしさだ。
 ハルトは顔を覆う包帯に手をかけ、一気に引きほどいた。そばの水桶にたまった水面をのぞき込めば、額から頬にかけての大きな傷痕が目に入る。
 あたふたと後を追って来た老人を振り返り、彼は訊ねた。
「この集落に、武具は備わっているか」
 老人は、先程と同じく、やはりすぐには意を得られずきょとんとした後、
「お、おう。元騎士がおるから、その気になれば一式は揃うと思う」
 と、答えた。
 安堵か、自嘲か。ハルトは薄く笑った。
 王都では顔は割れている。ならば、隠す手段は。