番外編2『仮面の下』(後)
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 ランバートン首都ハミルは、魔物とシェイドの猛攻にさらされていた。空を舞い炎を吐く合成獣キマイラに対し、ランバートン選りすぐりの魔道士が、第三階層から第四階層の水魔法や光魔法をぶつけるが、風のように地を駆ける影が彼らに向けて襲いかかる。精鋭の騎士たちが剣を振るい退けるものの、こうも数にものを言わせて押し寄せられては、いずれは人間側が疲弊し、敗退する。そしてそれは最早、時間の問題でもあった。
 王城の奥の広間で、玉座に座した女王と、彼女を守る近衛騎士たちの元まで、喧噪は低い地響きとなって届いていた。
「皆さん、どうか落ち着いてください。国の要たる我々が動揺していてはなりません」
 女王エリルは努めて平静を保ち、臣下たちにそう声をかける。しかし、彼らの目が向かない隙に、王位継承者の証である銀細工の腕輪をはめた二の腕を、右手の爪が食い込みそうなほどにぎゅっと握りしめ、己の身体の震えを鎮めようとしていた。
 一国の主とはいえ、エリルはまだ十九歳。この世界では十六の齢を数えれば大人で、更に、人前で毅然と立つ術は幼い頃から徹底的に叩き込まれて来た彼女だが、一人の少女として誰かの庇護を求めたいと思った事は、いくらでもある。
 情けない、と我ながら呆れる。血を分けた半身のエリサは、もっと過酷でもっと危険な状況に身をさらしているというのに。
 それとも。そんな道でも想いを寄せる相手と共に歩める分、妹は幸せなのだと、妬む気持ちがどこかに存在しているのだろうか。自分はそんなに狭い心の持ち主なのだろうか。
 父は何故、自分を己の後継者に選んだのだろう。より利発で度胸もある、世に生まれ出た順番ならば、第一位の継承権を持っておかしくなかった妹ではなく。
 いや、本当は知っている。微々たる差と云えども、より魔力が高く魔道に長けた方の娘を、父はランバートンの慣例に則って選んだのだと。父はそういう人間だった。前例に無い事をするのを、定められた道から少しでも外れる事を、非常に嫌う、それでいて周囲の意見に流されやすい、気弱な性分だった。それが、エリルが信頼する、いや、かつて信頼した、今はもう亡き男の一家に悲劇をもたらした事も、今の彼女は知っている。
 ああ、もしも。エリルは思う。
 彼が今、そばにいてくれたなら。自分を愛してくれなくても、憎んでいても構わない。ただそばにいてこの手を取り、「あなたをお守りいたします」と、耳元で囁いてくれたなら。
 それだけで、どんなにか心強いだろうに。それだけで、この震えをおさめ、凛とした表情を繕って、立ち上がる事ができるだろうに。
 思考は、何かが派手に窓硝子を破る音で中断させられた。鳥型の影が十数体、広間に飛び込んで来たのだ。咄嗟に近衛騎士たちが応戦するが、室内を縦横無尽に飛び回る影に翻弄されて、次々と傷を負い倒れてゆく。
 エリルは玉座から立ち上がり、階を駆け降りて、彼らの治療に当たろうとする。そんな彼女目がけ、影の一体が急降下して来た。
 どんなに魔道に長けていても、詠唱を行う間を与えられなければ、ただの無力な人間。痛烈な一撃を食らう恐怖に、エリルの足はすくみ、ぎゅっと目をつむる。女王の威厳を保つべく、悲鳴をあげるのだけは堪えた。
 だが、影の鋭いくちばしに身体を貫かれる痛みはやって来なかった。代わりに、耳障りな断末魔の叫びが耳に届く。おそるおそる目を開けば、影が黒い煙を吹き上げながら消滅してゆくところだった。
 そしてエリルは気づく。長剣を振り抜いた体勢のまま、己をかばうように立つ、黒い甲冑に身を包んだ騎士の姿に。
 騎士はエリルを振り返る事無く、更に飛びかかって来る影を仰ぐと、剣を握り直し、次々と斬りつけた。全身くまなく鎧で覆われ、目庇も深く下ろされて、その明確な背格好や素顔をうかがい知る事はできない。
 だが、エリルは直感していた。実際は、それまでの記憶から思い当たったのだが。
 流れるような美しい太刀筋。無駄の一切無い立ち回り。実際の戦場を見た事が無くとも、騎士たちの剣舞を観覧していた時、食い入るようにただ一人を見つめていた。
 その、ただ一人と同じ動き。間違えるはずが無い。確信する。
 彼だ、と。
 生きていてくれたのだ、と云う素直な喜びと、何故今この時になって現れたのか、と云う戸惑いと、自分を憎んでいたのではないか、と云う恐れにも似た感情。様々な想いがないまぜになって、エリルの瞳はあっという間に潤んだ。
 彼女が立ち尽くすうちに騎士は次々と影を屠り、全滅させた。
 騎士が振り返る。兜の奥の瞳がまっすぐに自分を見つめている予感がしたが、騎士は不意に顔をそらすと、剣を鞘に収め、一言も放つ事の無いまま広間を出て行った。
 その時、傷つき倒れた部下たちに回復魔法を施すより、追いかけねば、と云う気持ちが先に立ってしまったのは、女王として恥ずべき事だったのだろう、と後年エリルは思う。だが、この時後を追わねば一生後悔しただろうとも、同時に思うのだ。
「皆さん、よく戦ってくれました。無事な方は、怪我を負った方の助けを」
 何とかそれだけを言い残し、エリルは服の裾をつまみあげて、小走りに広間を駆け出た。男の歩幅は、まつわりつくスカートをまとった女の足ではなかなか追いつかない。
「――ハルト!」
 その名を叫ぶと、騎士の足が止まった。エリルは駆け寄り、自分より遙かに背の高い相手を見上げる。
「ハルトなのでしょう。どうか顔を見せてください」
 黒い甲冑越しでも、その肩がびくりと震えるのがわかった。しばらく落ちる、沈黙の後。
「彼は死んだ」
 兜の下から騎士は言葉を発した。
「あなたの騎士は、もういない」
 否定の言葉が放たれる。だが、その声色までは隠せない。よく知った、愛おしい声そのものだ。エリルは口元を抑え、今にも目からこぼれ落ちそうなものを必死に堪える。
 彼はこの兜を取って素顔を見せてくれはしないだろう。それどころか、もう一度名を呼べば、今すぐにここを立ち去り、二度と自分の前に姿を現してはくれまい。
「それでも」
 生きていてくれた事が嬉しい。その背にすがりつけば、頬を温かいものが伝った。
「私は赦されない」
「わたくしが赦します」
 あくまで感情を殺して静かに放たれる台詞を、エリルは受け止め、そして首を横に振る。いいえ、赦されなければいけないのはわたくしの方、と。
「あなたに罪は無い」
 騎士は言う。
「あるはずが無い。なのに、憎しみを抱いて、復讐に胸を焦がしていた。あなたのそばにいる資格は、私には無い」
「それでも」
 エリルは懇願する。女王ではなく、一人の女として。
「どんな形でも構いません。どうかずっと、わたくしのそばにいてください」
 長い長い沈黙が落ちた。二人が口を閉ざせば、襲撃が収まり事後処理に慌ただしい城内の音が、消火を叫ぶ街からの喧騒が、長い廊下に響いてくる。
 そんな中、騎士がそっと呟いた。それは、周囲の音にかき消されそうなほど小さかったが、エリルの耳に確かに届く。
 エリル、と。
 生まれて初めて耳にする、彼が口にする、ずっとずっと呼んでほしかった、彼女の名前。
 夜のとばりが降りた廊下に、月明かりに照らされ、ふたつの影が映っている。それがそっとひとつに寄り添った。

 ランバートン第八十六代国王エリル・メレイア・ランバートンは、善政を行った善き女王であったが、生涯婿を迎える事が無かった。だが、それでも一人、王子を遺している。その父親については様々な憶測が飛び交ったものの、ついに真実は判明しなかった。
 彼女のかたわらには、常に一人の黒騎士がそばづいていた。いつでも鎧兜という仮面の下に己を隠し、決して正体を見せる事の無かったその騎士は、忠実に女王に仕え、そして数十年の後に彼女が崩御した時、いつの間にか姿を消していた……と、ランバートンの史書には記されている。