番外編5『歳の差夫婦』前編
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 ねえ、覚えてる?
 あの日の約束を。

「ナイア、ナイア!」
 駆け足の音と共に稽古場へ飛び込んで来た呼びかけで、ナイアティット・フィーンは、訓練用の木剣を振るう手を止め、声の方を向いた。
 短い蒼髪の少女が、満面の笑顔で右手を振っている。見習い騎士としての同僚である、タニヤ・アイヴィスだ。彼女の左手には、上質な紙を使った封筒が収まっていた。
「もう、また自主訓練ばっかりで。そんなんじゃ男にもてないぞ?」
 タニヤはくりっとしたつぶらな瞳をいたずらっぽく瞬かせて、封筒をひらひら見せびらかしながら近寄って来る。
「私の勝手でしょう」
 汗で頬にはりついた桃色の髪を手櫛で後ろに流して、ナイアティットは鼻を鳴らした。
「で、何?」
 その質問を待ってましたとばかり、タニヤは「じゃーん」と封筒をナイアティットの目の前に掲げてみせる。表には、判読不能と紙一重の流れるような筆致で、タニヤの名前が書かれていた。
「リヒターから、夜会のお誘いをもらっちゃいましたあ」
 その名前を聞いて、ナイアティットは、友に気づかれない程度の微妙さで眉根を寄せた。
 リヒター・フェルディナントは、ヴァリアラ高官の跡取り息子だ。家柄で騎士になった典型的貴族のおぼっちゃまで、その地位と、金髪碧眼の端麗な容姿と、形の良い唇から流れ出す口説き文句を惜しみなく活かして、流した浮名は数知れない。
 彼に憧れるタニヤには申し訳無いが、男は口数少なくともいざという時に強くあればいい、と考えるナイアティットとしては、あまり関わり合いたくないタイプの男性だった。
「はいはい、良かったわね。頑張って」
 片手を振りながら、なあなあに友を激励していると。
「やあ、ナイアティット」
 稽古場に不釣合いな柔らかい声色が、ナイアティットを呼んだ。
 嫌な予感を覚えて振り向く。予感は正しく、まさに今話題のリヒターが、女好きのする笑顔を浮かべてこちらに向かって来るところだった。
 タニヤがぽうっと横顔を見つめているその前で、リヒターは、「君に、これを」と、ナイアティットの手に恭しく白封筒を滑り込ませる。中身は推して知るべし、だ。
「君が来てくれるのを、心から楽しみにしているよ」
 ナイアティットの手を両手で優しく包み込み、口づけひとつ落として、リヒターは会心の笑みと、男のくせにほのかな香水の匂いを残して、立ち去った。
「……ずっ……るーい、ナイア!」
 たちまちタニヤが気色ばみ、ナイアティットに詰め寄って来る。
「あたしなんか、はいって渡されただけなのに。羨ましい、恨めしいぞ!」
 明らかな嫉妬だが、その口調はおどけ気味で決して悪意を含まないのが、タニヤの美点であり、ナイアティットが彼女と友人関係を続けていられる理由である。
「で、どうするの、行くの? 行くなら、服とか一緒に用意してあげるけど」
 ふざけた様子を引っ込めて、タニヤがこちらの顔をのぞき込んで来る。
「う、ん……」
 ナイアティットは、肯定とも否定ともつかない、曖昧な返事をした。騎士道を突っ走るあまり、年頃の娘が身につけるようなドレスや装飾品、化粧道具を満足に揃えていない彼女だが、この手合いの宴に出たがらない最大の原因が他にある事は、タニヤも承知している。
(リヒターに誘われたって聞いたら、あの人は何て言うかな)
 ナイアティットの脳裏には、幼い頃から刻まれた、優しい従兄の姿が浮かんでいた。

 ところが。

「いいんじゃないのか」
 それが、その優しい従兄からの返答だった。
 市街地の中心部にある食堂は、安さに妥協しない美味さから、市民だけでなく、まだ俸給の高くない若手ヴァリアラ騎士たちも通いつめるので、真昼を過ぎてもテーブルは満席で、ざわざわと騒がしい。だが、目の前の男が放った言葉は、どうやら喧騒による聞き間違いではなさそうだ。
 サイゼル・ロストックは、ナイアティットが唖然と目を丸くして言葉を失ったのに気づくと、『本日のおすすめプレート』の鶏肉ローストを切り分ける手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ、もう食べないのか」
 だから大きくなれないんだぞ、と、迂闊にもナイアティットのコンプレックスをひとつ、串刺しにして。
「……いいわけ?」
 ナイフとフォークを握る手がかたかた震え出すのを必死に抑えて声を絞り出せば、「何がだ?」と、呑気な言葉が返って来る。
「サイゼルは、私がそういう宴に出て遊んで来ても、いいわけ?」
 軟派なリヒター主催で、同輩の若手騎士や見習いを集めて夜会を開くという事は、建前は同志の懇親会だが、本音は彼の嫁探しに違いない。主催者の意向がそのようなものならば、そこに集う者たちも、出会いを求めてやって来るだろう。
「いいも悪いも」
 しかしサイゼルは、実情を理解しているはずなのに、自分は関係ありません、とばかりにあっけらかんとした様子で告げるのだ。
「ナイアが出たいなら、私に止める権利は無いだろう。それにナイアも年頃だ。誰か意中の男性がいるなら、交流を持ってみれば」
 いいじゃないか、までを言わせずに、がちゃん! と食器をテーブルに叩きつける音がしたかと思うと、がっしゃん! と、おすすめプレートがサイゼルの顔に命中した。ナイアティットが自分の分を投げたのだ。
「もういい。あなたに訊いた私が馬鹿でした!」
 プレートを顔面にひっつけたまま「食べ物を粗末に扱ってはいけない」などともごもご喋るサイゼルを置き去りにして、周囲の人間が何事かと驚いて注視する中、ナイアティットは大股で食堂を出て行った。
 肩をいからせながら通りを歩く。じんわり涙がにじんできて、ナイアティットは立ち止まると、腕でぐしぐし顔を拭った。
 本当は、止めて欲しかったのだ。そんな火遊びはやめろと叱って欲しかったのだ。
 それをサイゼルがしてくれなかったから、彼だから腹が立ったのだ、という答えに至らないほど、ナイアティットの想いは昨日今日で作られたものではない。幼い頃から、じっくりと培われて、彼女の心の多くを占めている。
 サイゼルは、顔は良いし、騎士としての礼節も武芸の腕前も立派で、三十三歳という若さでヴァリアラ騎士団副長を務めている。今の騎士団長は老境にさしかかっており、彼が引退すれば、自動的にサイゼルがその座を継ぐだろうと、誰もが目している。
 そんな申し分の無い身分なのに、その歳にして浮いた話のひとつも湧いて来ないのは、ひとえに彼が、騎士道以外の事に気を配るのが下手だからだ。
 騎士服はそつなく着こなすくせに、その他の服装には無頓着なので、非番時における普段着のセンスは目を覆わんばかりだ。女性の扱いもまずく、気の利いた事を言えず、貴婦人にビンタを食らった不名誉な戦果の数を、ナイアティットは正確に数えあげられる。
 そんな甲斐性無しを見捨てずに想ってやっているのは、自分くらいのものだ。そういう自負がある。
 だが、同時に不安も感じるのだ。果たして自分は彼につりあうのか、と。
 服装に無関心なのは、騎士としての自分に熱心な反動だ。朴念仁なのも、正直すぎるあまりに、舌先三寸で相手を喜ばせるような事を言えない性格だからである。
 だからこそ思い煩う。幼い頃のあの約束は、もう時効なのではないか、と。

「わたし、おおきくなったら、サイゼルおにいちゃんのおよめさんになるの」
 五歳の子供の、憧れの人へ無邪気に向けた、こましゃくれた発言。
 十八も年上の従兄は、
「ナイアが大きくなったら、きっと僕以外の、もっとナイアにふさわしい男の人を好きになるよ」
 と、困ったようにはにかんだ。
「そんなことないもん。わたしはサイゼルおにいちゃんいがい、すきにならないもん。ぜったいぜったい、サイゼルおにいちゃんのおよめさんになるんだもん」
 ぶるぶるぶる、と勢いよく首を横に振りながら、今にもべそをかいて泣き出しそうになると、彼は、自分と同じ目線の高さにまで身を屈め、
「じゃあ、約束しよう」
 すっと右の小指を差し出して。
「ナイアが大きくなって、それでも僕を好きだと言ってくれたら、必ず僕はナイアをお嫁さんにする」
「……ほんと?」
「本当だよ」
 濡れた目をしばたたかせると、黒い瞳が優しく笑み返す。
 たちまち涙は引っ込んで笑顔になり、小指同士を絡ませ、思い切り上下に振って、
「やくそくだよ、やくそく!」
 何度も何度も、繰り返した。

 あれから十年。
 憧れの従兄に追いつきたくて、騎士を志した。隣にいたくて、正騎士となる為の訓練に躍起になった。背の高い彼の胸あたりまでしか無い身長だって、もっともっと欲しい。
 しかし、もし彼が忘れてしまっているのなら、いつまでも思い出をよすがに、彼の周りをうろちょろするのは、お互いの為にもならないのではないか。
 胸元のポケットから、折りたたまれた招待状を取り出して、目を落とす。
 潮時、なのだろうか。