番外編9『約束の場所で』
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 きっとまた会える。
 その日を信じて。

 名を呼ばれた気がして、彼は目を覚ました。
 だが、目を開いても辺りには誰もいない。世界は黒に塗りつぶされていて、どれくらい気を失っていたのか、はかり知る事も出来ない。
 身を起こせば、直上に黒い太陽が在る。それ以外に光源は無く、障害物も無い荒涼とした黒い地平が彼方まで続いているばかりだ。
 彼は自分の思考をたどる。
 自分は。
 セレン・アルヴァータ・リグアンサ。
 最強の火の精霊『光炎の翼カルバリー』を宿す。
 アストラルと人間の混血。
 そこまで考えた所で、どくんと、自分の中で脈打つ光炎の翼以外の異質な存在を感じ取って、セレンは身体をくの字に折り曲げた。
 動悸が激しくなる。息がきちんと肺から出し入れ出来なくて苦しい。真っ黒い意志が、彼の意識を途切れさせようと、脳をはい上がって来るようだ。
 ここで自我を手放せば楽になれるのだろう。だが、それをする訳にはいかなかった。
 彼は理解していた。自分の中に居座るこの黒の正体を。
 アストラルが作り出した最悪の存在、『アポカリプス』。実体を持たず、アストラルの身体を乗り継いで生きる破壊意志。
 倒したと思った。倒せたと思ったのだ。
 だが、アポカリプスは彼の予想を超えた。勇者の子孫が振るう神剣の力を持ってしてなお、アポカリプスはその意志の欠片を残し、最も近くにいたアストラル――つまりセレンに憑いたのだ。
 それに気づいた彼は、アポカリプスと共に、破壊者がその名に反して創り出した世界の狭間にひとり残った。
『駄目だよ。一緒に帰ろうよ』
 と、涙声で差し出した少女の手を取らずに。
 彼女は無事に元の世界へ帰れただろうか。セレンは思う。
 その途端、ちり、と頭が痛んだ。彼が意志をもって思考する事を、アポカリプスが阻害しようとしているのだ。
 アポカリプスに憑かれた者は、やがて自我を食われ、ただアポカリプスが行動する為の容れ物として存在し続ける。
 過去、アポカリプスを自分の身に宿してその力を利用し、覇王として降臨しようとしたアストラルも少なからずいた。だが、己の野望を達成せしめた者は誰ひとりとしていなかった。ことごとくが意志を失い、ただの破壊者として世界に恐怖を与えたのだ。
 このままでは、自分もいずれそうなる。自分という概念を失くし、アポカリプスとしてこの狭間を出でて、守ろうとした世界に破滅をもたらす事になるだろう。
 そう、彼は守りたかった。
 父と母が生きた世界を。
 仲間のいる世界を。
 守りたいと思った少女が救おうとした世界を。
 目を閉じ呼吸をととのえて、セレンは脳裏に思い描く。少女の姿を。
 萌える草のような緑の髪、天空色の大きな瞳。実年齢より幼く見える顔を彼女はコンプレックスに思っていたようだが、そのあどけなさも魅力のひとつだった。
 そして何より、その心。自身も辛い過去を抱えながら、それでも笑顔を見せ、他人を気遣い、皆を引っ張ってゆける強さに、知らず知らずの内に魅せられていたのだ。
 だが、その思惟も、ぶつりと映像が途切れるかのように中断させられる。自分の中で黒が占める範囲が広がった事を、セレンは理解した。
 そこに、ひた、ひたと足音が近づく。ひとつやふたつではない。複数のものだ。
 顔を上げると、黒の世界の中でなお黒い、人型や獣型、鳥型のシェイドが近づいて来る。ともすればすぐさまアポカリプスに主導権を奪われそうになる意識の中、セレンは身を硬くして拳を握り締め、いつでも炎の魔法を撃ち出せるように待ち構えた。
 影たちはセレンを取り巻く格好で立ち止まる。その中の、人型の一体が進み出て、彼の前で膝をついた。
「ご命令を」影は言った。「我らは貴方に従う。ご命令を」
 それにならうように、影たちは次々ひざまずき頭を垂れて、セレンの言葉を待っている。いや、正確には、彼の口を借りた、アポカリプスの言葉をか。
 しばらく黙り込んで、セレンは口を開いた。
「オレの言う事も聞けるという事か?」
「今はあなたが主」
 影は一切の抑揚無く答える。
「主を宿す、あなたが主。主の言葉は絶対」
 それを聞いて、セレンはほんの数瞬思案し、赤の瞳を細めると、彼らに言った。
「なら、消えろ」
 と。
 自分の中のアポカリプスが、咄嗟に邪魔をしようと身の内で暴れたのを、セレンは感じた。脳髄を引き裂くような痛みに苦悶の呻きを洩らす。だが、ここで呑まれる訳にはいかない。額に汗を浮かべながら、彼は言い切った。
「影は全て無に還って、二度と世界に現れるな」
 しばしの間があった。影に、主の言葉の意味を咀嚼する、「考える」という概念があるのか、それはわからない。だが、彼らはやがて、再度恭しく低頭した。
「我らが主の仰せのままに」
 そうして、影が次々と黒の世界に溶けてゆく。まるで初めからそこには誰もいなかったかのように、影は全て消えた。
 セレンはほうと息をつく。
 これでいい。これで影が世界に干渉する事は、もう無い。
 自分が、最後の仕事を果たせれば。
 セレンは身を屈めて右手を伸ばした。こつん、と指が硬いものに当たる感触に、自分の意識というものがまだ存在する事を確認して、それをつかむ。
 この黒の世界でも輝きを失わない、柄に埋め込まれた虹色の石と、透明な刃。
 悠久の神剣、エターナリア。
 セレンは、勇者以外の使い手を拒むこれを自分が持てる事を、誰にも黙っていた。伝説の勇者は、アストラルと人の混血だった。その子孫以外でも、同じ血を持つ者なら、持つくらいは出来るのだ。彼自身も実際に手にしてみるまで、確信を得る事は出来なかったのだが。
 掲げたガラスのような刀身に、自分の赤い瞳が映し出されるのを見つめる。意図に気付いた自分の中のアポカリプスが吼え猛り暴れるのを、激しさを増す動悸と、暗転しかける視界で、彼は知る。
 この身体を破壊者に明け渡す気はなかった。かと言って、ここでひとり、名も残らぬ英雄としてアポカリプスと共に果てる気も無い。
 これは賭けだ。セレンは決意していた。
 エターナリアはアポカリプスを殺せる。アストラルも。
 ここで自分の身を貫けば、アストラルである自分は死に、乗り移るべきアストラルのいないアポカリプスも完全に消滅するだろう。
 だが、人間である部分の自分は生き残れるかもしれない。その可能性に賭ける事にしたのだ。
 アポカリプスの消滅と同時に、転移魔法で世界を超え、元の世界へ戻る。
 失敗するかもしれない、という考えはあった。死ぬかもしれない。世界を超えられないかもしれない。いや、最悪の場合は、アポカリプスを殺せず、再び破壊者を世界に解き放つ事になるかもしれないのだ。
 それでも。
 彼は諦める気は無かった。万にひとつでも確率があるのならば、未練がましいと言われても、世界に再び危機を持ち込んだとなじられようとも、この命に見切りをつけたくはなかった。
 同族にも顧みられずに、影から逃げ回っていた頃と比べたら、何て生に執着するようになったのだろう。苦笑して、そして、自分をそうさせた少女の顔を再度思い浮かべる。
 口の中で小さく彼女の名前を呼んで、セレンはエターナリアを持ち上げ、その切っ先を、自分の心臓の位置へと間違い無く突きつけた。
 アポカリプスが最後の抵抗とばかりにがんがんと脳を叩きつけるが、痛みは最早感じない。
 ただ、想いが、あるだけ。
 彼女にもう一度会いたい。
「待ってる」と指切りをして笑った彼女との、約束を果たしたい。
 かつて世界を超えた時のように、元の世界では、また長い時間が過ぎているかもしれない。一年、五年、十年。下手をしたら、何十年も過ぎてしまっているかもしれない。
 彼女は待っていないかもしれない。もう自分の事など忘れて、他の誰かと出会い、恋をして、家庭だって持っているかもしれない。
 それでも良かった。ただ、もう一度会いたい。それだけだ。
 右手で握った神剣を胸に突き立てる直前、左手で転移魔法を発動させる。
 エターナリアからまばゆいばかりの光が発せられて、アポカリプスの断末魔の悲鳴が聴覚を塞ぎ、視界が白に包まれる。
 遠ざかる意識の中、セレンは決めた。約束の場所で彼女に再び会えた時、最初に言うべき言葉を。

 そう、きっとこう言おう。

「ただいま」

 と。