第6章:夢惑むわくの森に銃声は響かない(3)
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 どれくらい戦っただろうか。わらわらと自分に向かってくる小鬼を全てねじ伏せた時、シズナは周囲があまりにも静まり返っている事にやっと気がついた。辺りを見回せば、霧の深い森と、累々と横たわる魔物の死体ばかりで、ミサクもアティアもイリオスも、姿が見えない。どうやら完全にはぐれてしまったようだ。
 溜息をつきながら剣を鞘に戻し、懐から方位磁石を取り出す。せめて方角を把握できればと思ったが、磁石は案の定狂ったようにぐるぐる回るばかりで、正確な情報を与えてはくれなかった。
『山で遭難した時は、無闇に歩き回らない事だ。体力を消耗してあっという間に弱る』
 師匠のガンツの言葉が脳裏に蘇る。
『水場を確保して、食料は一気にじゃあなく少しずつ口にする事。救助を期待出来るなら、動かないのが上策だ』
 ここは山ではなく森だが、今陥っている状況は似たようなものだろう。道を知っているミサクが、皆を集めて助けにきてくれるかも知れない。この場にとどまるべきか。
 だが、という思いも浮かぶ。
 万が一、ミサクが敵と通じているとしたら。わざと危険な森にシズナ達を引き込んで、ばらばらに引き離して、一人ずつ始末しようとしているとしたら。
 そこまで考えた所で、馬鹿な話だと頭を振ってその考えを脳内から駆逐する。ミサクはこの一年間、親身になってシズナの面倒を見てくれた。シズナもミサクには信用を置いていたから、こちらの油断を衝いて始末する事など、容易かっただろう。
 いや、王城内でそれをすれば、ミサクは勇者を殺した大罪人として刑に処せられる。王都を離れた今だからこそ、死体さえ残さなければ、「勇者シズナは奮戦虚しく命を落とした」などという建前をいくらでも作って、ヘルトムート王に報告出来る。
 この深い霧が脳まで侵しているのか。悪い想像は入道雲のようにむくむくと膨れ上がって、気持ちを暗くしてゆく。またひとつ、溜息を零した時、ふっと視界を横切った影に、シズナははっとして顔を上げた。
 この濃霧の中でも見間違える事の無い、紫の髪。心臓が高鳴る。まさかの思いが脳裏を巡る。こんな所に彼がいるはずが無いと理性はわかっていても、もしもの感情がそれを押しやる。
 気づけばシズナは、はぐれた場から動かずにいるべきだとの心定めも忘れて、地面を蹴り駆け出していた。紫色を持つ影は、霧も、張り出した枝も邪魔にならないのかとばかりの速度で前をゆく。見失わないようについてゆくのが精一杯だ。
 やがて木々が途切れ、霧も薄れて視界が開け、青に輝く泉が姿を現した。
 辺りを見回しながら泉に近づく。求める姿は、泉のほとりにたたずんで、こちらを見つめていた。
 記憶の底に押し込めかけていた顔が、そこにいる。紫の髪が、こんな森の中に無いはずの風に揺れ、紫水晶と同じ色の瞳が、泉の光を反射して、淡い青を帯びている。
「……アルダ」
 名を呟けば、ぽろりと、封印されたはずのひとしずくが頬を伝い落ちる。会えたら目一杯の罵倒をぶつけてやろうと思っていた気持ちは、一瞬にして吹き飛んだ。
 ああ、やっぱり。シズナは自覚する。
(私はこの人をまだ愛している)
 だが、しかし。
 アルダは応えなかった。無表情で、感情の乗らない瞳は何を考えているのかわからない。惹かれるように見やった左薬指に、銀の輝きは無い。
「アル、ダ?」
 小首を傾げて一歩を踏み出そうとしたその時、何かががっちりと足をつかんでいて、シズナは思わずつんのめった。咄嗟に見下ろして、足首に緑の蔓が絡みついている事に気づく。それは、泉の中から這い出ていた。
「魔の領域を侵す者には、相応の罰を」
 アルダがにやりと口の端を持ち上げて笑った。いや、これはアルダではない。彼はこんな邪悪とも言える笑みを見せた事は無い。
 即座に『フォルティス』を抜き放とうとしたが、蔓に足を強く引かれて、シズナは小さく悲鳴をあげながら地面に倒れた。そのままずるずると泉に向けて引きずられてゆく。腕や髪にも蔓が伸びてくる。左手を封じられ、結った髪を引っ張られて、瞬間、息が詰まった。
 混乱する頭で必死に考え、聖剣を抜く事は諦めて、代わりに一緒にたばさんである短剣を右手で解き放つ。そして左手の蔓を切り落とし、髪に絡みついた蔓も切り落とそうとしたが、幾重にも巻きついた蔓は簡単に振りほどけそうに無い。覚悟を決めると、シズナは、結ってある根元から、金色の髪を無造作に切り払った。
『短いのも良いけれど』
 アルダの明朗な声が脳裏に蘇る。
『シズナは長い方が似合ってて、可愛いな』
 彼にそう言われたから、髪を伸ばし続けていた。またひとつ、アルダとの繋がりを捨ててしまった事に果てしない喪失感が胸に迫るが、ぐっと奥歯を噛み締めて感傷に耐える。
 髪を捨てても、脅威はまだ終わった訳ではなかった。足に絡みついた蔓は、確実にシズナを泉へ呑み込もうと引きずり続ける。このまま泉に落ちたら溺死も免れない。何とか脱出する策を求めて再び考えを巡らせ始めたシズナの耳を、ぎゃあっと断末魔の悲鳴が刺した。
 蔓の力が弱まったので、反射的に半身を起こして短剣で切りつける。蔓はあっけなく切れ、枯れ色になって力を失った。
 それから、アルダの姿をした何者かを振り返る。胸から剣の切っ先が突き出ていて、間違い無く心臓を刺し貫いている事を示していた。
 その姿がぐにゃりと歪んで、青白い肌をした、尖った耳を持つ小柄な白髪の少女に変わる。剣が引き抜かれると、少女は青い血を吐き白目をむいてゆっくりと脱力し、地面に倒れ伏して二度と動かなかった。
「これがリリスの正体だったようだぜ。嬢ちゃんはやっぱり迂闊だな?」
 偽物のアルダ――魔物リリスの背後に立っていた、シズナの危機を救った声の主を見て、我知らず安堵してしまう。いつもなら嫌悪感を覚える相手でも、味方のいないこの状況では、こんなにも頼もしく思えてしまうのか。
「んだよ、嫌味のひとつでも返してくるかと思ったのに。拍子抜けじゃねえか」
 赤髪の騎士イリオスは、剣についた魔物の血を払って鞘に収めると、大股にシズナのもとへ歩み寄ってきた。
「気づいたら全員はぐれちまったからよ、とりあえず襲ってくる蔓を切り払いながら走ってきたぜ」
 力任せな所は相変わらず彼らしい。思わずぷっと笑いを洩らしてしまうと、騎士は虚を衝かれたように色の薄い目をみはり、それから口元をにたりとつり上げた。
「へえ、俺にもそういう表情かおを見せてくれるようになったか」
 彼が手を差し伸べてくるので、素直にその手を借りて、立ち上がる。と。
「ついでに色っぽい顔も見せてくれると、更に満足なんだがなあ?」
 急に、獲物を狩る獣のように獰猛な声が聴こえ、シズナの身体はイリオスの腕の中に抱きすくめられていた。