はじめての一歩
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「大丈夫よ、イリアナ」
 くすんだ金髪をうなじのところで結った若い女性は、ほんの少しだけ離れた場所で膝をつき両腕を広げて、我が子を呼んだ。
「あうー」
 まだ喃語しか発せない娘は、まん丸い碧の瞳で母と床とを交互に見やって唸る。
「恐くない。おいで」
 周囲の言っている事を理解しているかいないのか、まだ判別のつかない頃だが、母親の意図は伝わったらしい。またもこちらを見、自分の足元を見て、小さな裸足をおそるおそる持ち上げ、ぺたん、と一歩前に踏み出した。
 そしてゆっくりと二歩目を踏み締める直前に、椅子から手も離れる。
 よたつきつつ。
 娘はこちらに向けて両手を伸ばし、「あー」と今にも泣きそうな顔になりながら、必死に一歩一歩を刻む。
 やがて、ぽすん、と軽い感触が胸に訪れ、我が子ががっしりとしがみついて来た。
 未知の歩みに踏み切った娘は、母に辿り着いて安心したらしい。碧の瞳があっという間に潤み、丸い顔をくしゃくしゃにして、わんわんと泣き出した。
「ああ、偉い偉い。よく頑張ったね、イリアナ」
 その小さな身をぎゅうっと抱き締め、同じ髪色の頭を撫でて、女性――ヤコは、優しい声で娘に呼びかけた。

『結婚しよう』と。
 そう言われて、『とうに死人』の身に余る愛を受けてから、二年は飛ぶように過ぎた。その間に、ヤコは帝都を追われ、身重のまま辺境のこの村へ辿り着き、気の良い村人達に助けられて、この子を産んだ。
 産まれた娘の、あの人と同じ色の瞳を見て、ヤコは涙を溢れるに任せ、実在を確かめる事の出来ない神の采配に心から感謝した。誰の子かわからない子を産む不安に苛まれていたそれまでの日々が、あっという間に彼方へと吹き飛んだようだった。
 はじめての一歩を踏み出したこの子はやがて、ふらつかずに歩けるようになるだろう。走り回って、元気に喋るようになるだろう。そうしていつか、ヤコに訊くのだろう。
 父親の事を。
(アル)
 胸の内で愛しい男の名を呼び、まだ少年ぽさの抜けないあの顔を思い描く。
 あの人に、この子の顔を見せたかった。寝返りを打ち、座れるようになり、はいはいをし、立ち上がり、そして今日歩み出したこの姿を、一緒に見届けて、驚きや喜びを分かち合いたかった。
 だがもう、それも叶わない。
『勇者アルベイン・レイテルは魔王と相討ちになって死んだ』
 その報せは大陸中を駆け巡り、帝都から遠く離れたこの村にも届いた。それを聞いたヤコはその場に崩れ落ち、勇者と少女の関係を知らない村人達は、一体何事かと狼狽えつつも、悲嘆に暮れる彼女を懸命に慰めてくれた。
 それでも。
 娘の無垢な碧の瞳を見る度に、哀しんではいられないと何度も己に言い聞かせた。この子を守れるのは自分しか居ない。父親の事を、『勇者アルベイン』ではないただの『アル』の顔をこの子に語れるのも。
 だから強くなろうと、彼女は決めた。身体ではない。心の話である。忌み人である事に慣れ、蔑まされ憐れまれるのが当たり前だと甘えていた1242番はもう辞めだ。一人の人の親として、強くあろう。
 腕の中の柔らかい温もりを感じながら、彼女は決意を新たにする。
 その決意は、宇宙から虎視眈々とこの地上を狙う金色の肌の者達にさえ侵せない程に、強く、深いものであるのだった。