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 ホームルーム終了と共に、生徒達は、あるいは部活動へ、あるいは居残りの勉強の為に図書室へ、あるいは帰宅の道へと、散って行く。
 特定の部に所属しておらず、勉強も家の自室でやるのが一番落ち着き、はかどると認識している未来は、家路へつこうと、自転車置き場へ向かった。
 2年近く、通学を共にしているオレンジ色の相棒に鍵をさそうとして、未来は、あるひとつの異変に気づいた。後輪に手をやり、押してみる。タイヤは、ぺこぺこと、頼り無い感触を、未来の手に返した。
 まただ。しばらく無かったから、油断していた。
 また、母に頼んで、修理代を出してもらわねばならない。その理由を、そもそもの原因を告げるのは、親をどれだけ哀しませるかと思うと、パンクさせられた事実よりも、押して帰るしかなくなった自転車以上に、未来の胸に抱えるものは、重たくなった。

「姉ちゃん」
 自宅への上り坂道を、のろのろと自転車を押し歩いている所で、未来は、背後から呼びかける声と、駆け寄って来る軽快な足音を聞いた。
 振り向かなくてもわかる。弟の利久りくだ。
「利っくん、部活は?」
「今日は休み」
 あっという間に隣に並んだ弟に、短く問いかけると、やはり短い返事が返って来る。
 第二中学サッカー部のエースである利久には、この程度の上り坂は、きつくも何とも無い。息を整える必要も無く、未来の手にした自転車に、目を落として、眉間に皺を寄せた。
「またやられたのかよ?」
「……うん」
 未来が、萎縮して肩をすくめると、利久は無言でハンドルを奪い取り、未来の代わりに自転車を押し始めた。
 しばらく、落ちる沈黙の後。
「俺、やっぱり第一志望、北高でいく」
「利っくん」
 弟の発した言葉に、未来は軽い驚きを宿した瞳で、利久を見やった。
 中学3年生の利久が、そろそろ本気で進路を決めねばならないのはわかっている。しかし。
「だって利っくんは、白山学院に行きたいんでしょ?」
 利久の実力ならば、スポーツの盛んな名門校へ進学しても、立派にレギュラーとして活躍できるだろう。未来の通う北高のサッカー部は、お世辞にも、強いとは言えない。折角の利久の才能が、埋もれてしまう。
 未来は公立校通いだが、利久が私立校に進むくらいの資金が用意出来ないほど、家は貧しくはない。むしろ、やや裕福な方だ。両親も、反対はしないだろう。
 それに、学ランを着こなす利久に、北高の紺色のブレザーは、似合いそうに、無い。
「サッカーなんて、何処でだって出来る。それよりも」
 だが、利久は不機嫌そうな声色で、言うのだ。
「俺の見てない所で、姉ちゃんがこんな目に遭うのは、もう嫌だ。一年しか一緒に居らんねえけど」
 日本人として標準的な、黒い―幸いにも、未来のように、特殊な色にはならなかった―瞳に、憤りをたたえて、利久は言葉を継ぐ。
「姉ちゃんは、俺が守る」
 また言わせてしまった。
 未来は、弟に気づかれない程度に、小さな溜息をこぼす。
 幼い頃から、瞳が原因でいじめられた未来をかばい、時には、相手に飛びかかり殴り合いをしてまで守ったのは、2歳年下の利久だった。
 運動神経抜群で、父親似で顔立ちもそこそこ良い利久は、当然ながら、女子にもてる。だが、彼女達の勇気をふり絞った告白を、利久はことごとく、断ってきているのだ。
 しかも、その理由は、
「俺が守らなくちゃいけないのは、姉ちゃんだけだから」
 だと云う。
 よって未来は、他校の女生徒からも、やっかみや恨みを買っているから、気をつけるようにと、数少ない友人が教えてくれた事がある。
『私だけに、そんなに気を遣わなくていいよ。私は、一人でも大丈夫』
 何度、そう告げようとしたかわからない。言えないのは、そう言って、本当に利久が離れていってしまった時、自分一人で、現状を耐えきれるかわからない、結局弟の気持ちに甘えている自分が居る事を、認識しているからだった。
 しかし。
 利久には利久の人生がある。自分の問題で、彼の夢を奪う訳にはいかない。いつかは言わねばならないだろう。そして、そのいつかは、きっと近い。
「あのね、利っくん」
 極力笑顔を作って、弟に、その言葉を告げようとした、その時だった。

『―みこ。戦巫女……』

 頭の中に直接響くような声に、未来は足を止め、笑顔を打ち消し、周囲を見回した。
 しかし辺りには、人通りも無く、暮れかけた夕陽が、姉弟と自転車を照らすばかりである。
「姉ちゃん?」
 利久も立ち止まり、怪訝そうに振り返る。
『応えよ、戦巫女』
 再度、声が聞こえた。ある程度年齢を経て、落ち着いた、しかしどこか、恐怖を煽る、女性の声だ。今度は利久にも届いたらしい。警戒で顔を強張らせて、未来の腕を取り、引き寄せようとする。
『我が呼び声に応えよ、戦巫女』
 三度、女性の声が聞こえた。
 反射的に弟の手を握り締めた未来が気づいた時には、二人は、背後から突然押し寄せた、光の奔流に飲み込まれていた。
 まるで、濁流に落ちたかのように、上も下もわからず、身動きが取れないまま、流される。
 それでも、弟の手は離すまい、と、意識を集中させていた未来の指先に、
『お前では、ない!』
 また声が聞こえ、電流のような衝撃が走った。痛みに、びくりとすくめた瞬間、利久と、手が、離れる。
「姉ちゃん!」
「利っくん、利っくん!」
 あっという間に、弟の姿が遠ざかり、光の向こうに、見えなくなった。
 未来の胸に、恐怖が訪れる。このまま、何もわからぬまま、この光に溺れて、人知れず、息絶えていくのだろうか。
 じわりと、瞳が潤んだ時。
『―こ!』
 声が、聞こえた。
『俺の声に応えろ、戦巫女!』
 先程の、畏怖を与える女の声ではない。男性、いや、少年ともいえる、ひたむきさを感じさせる声だ。
『俺の手を取れ!』
 ぐぐ、と首を回し、声の方を振り向くと、光の中に、自分に向けて差し出された、手が見える。
 恐れも疑念も、差し挟む余地は無かった。
 それにすがれば助かるだろう、という、本能とも言える反応で。
 奔流に逆らい、必死に己の手を伸ばして、未来は、その手を、つかみ取った。

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