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 城を出た直後に降り出した雨は、夜半を過ぎて、いよいよ激しさを増した。
「ファル、このまま夜道を行くのは危険です。山に入れば、馬が足を滑らせる可能性もあります。何処かで、雨をしのぎましょう」
 スティーヴの呼びかけにも応えず、ファルスディーンは無言で馬を走らせる。
「―ファル!」
 強い一声と共に、護衛騎士の馬が、行く手を阻んだ。睨みつけると、
「未来ちゃんを心配する気持ちはわかります」
 いつもの温和さはなりを潜め、時折この男が見せる、厳しい視線が返って来る。
「ですが、急いても事をし損じます。それに、貴方の身体もまだ、本調子では無い」
「俺の事など構」
「構います」
 スティーヴはファルスディーンの言葉を中途に打ち切った。
「貴方は戦巫女と同等に、フォルティアにとって尊い方。護衛騎士の僕が、命に代えてもお守りしなくてはならない存在です。それをむざむざ、目の前で危険に追いやる訳にはまいりません」
 そこまで言われては、ファルスディーンも、無理を通す訳にはいかなかった。
「……わかった」
 雨音にかき消されそうな声で、彼は呟くように言った。
「だから、命に代えてもなどと言うな。俺は、命を懸けてもらうに値する存在だと云う自信など、無い」
 二人は洞穴を見つけ、雨宿りする事にした。入口付近に馬を繋ぎ、奥に入ると、火を熾して、ずぶ濡れになった上着を脱ぎ、乾かす。
「昼間から、何も口にされていないでしょう」
 スティーヴが、保存のきく食物をいくらか取り出し、スープを火にかけて温めてくれた。忘れかけていた空きっ腹に、食事はじんわりと染み入った。
 それからスティーヴは、自分の荷物の袋から、濡れないように気を配っていた紙切れを取り出した。食事を頬張るファルスディーンの目の前で広げると、それはハーヴェル山の地図だった。
「刈谷千登勢の庵の場所です。あの医師から、地図をもらって来ましたよ」
 いつの間に。目を見張るファルスディーンに、にっと笑いが返る。
「どうせ飛び出すだけ飛び出して、あても無く山中をうろうろするつもりだったのでしょう。もう少し、先を考えて行動してください。次の王になる方が」
 ファルスディーンはたちまち赤くなり、顔を伏せた。
「……すまない」
 ぼそぼそと、洩らす。
「お前が居てくれて、良かった」
「おや、この歳で耳が遠くなってしまったようですね。貴方の声が聞こえない」
「からかうな!」
 スティーヴが、明後日の方向を向きながら飄々ととぼけると、ファルスディーンは、真っ赤なままの顔を上げる。
「世辞じゃない。今まで本当に、お前のおかげで、助かる事は何度もあった」
 異端の王子として、陰に日向に、蔑まされてきたファルスディーンにとって、表裏も、媚びへつらう事も無く接してくるこの乳兄弟の存在は、何物にも代えがたかった。彼が居なければ、自分はもっとひねくれた、心荒んだ人間になって、フェーブルの城内で、本当の意味で孤立していたに違い無い。
「ありがとう」
 礼を述べると、スティーヴは、少し面食らった様子を見せたが、やがて柔らかく笑む。
「何、これで最後のような言い方をなさるんですか。これからもまだまだ、貴方の傍で、口やかましく言わせてもらいますよ」
 その言葉に、ファルスディーンも微笑と、殊勝な台詞を返した。
「そうだな、頼む」

 雨は翌朝にはやんだ。ファルスディーン達は、昨夜の遅れを取り戻すかのように、馬を走らせた。
 洞穴を出た時、東から昇るところだった太陽が南中を過ぎる頃には、草原を見渡せた景色は、丘陵地に変わり、やがて陽が沈む間際には、岩だらけの山岳地帯へと入る。もう、ハーヴェルの山中だった。
「完全に暗くなる前には、元戦巫女様の庵に、辿り着きたいものですが」
 スティーヴが地図と睨み合い、ふと、その視線をさらに険しくして、顔を上げた。ファルスディーンも、周囲を見回しながら、グランシャリオの柄に手をかける。
 岩場の陰から、銀色の毛並を持つ狼型の魔物が、一頭、二頭と姿を現した。ファルスディーン達を囲むように次々と顔を出す魔物の総数は、しまいには、十以上を数える。
 魔物達は、低い唸りをあげて、今にも飛びかかって来そうだ。こちらも剣を構えて、いつでも迎え討てるようにしていると。
「お待ちなさい」
 ひどくしわがれた老婆の声がして、魔物達が、唸るのを止め、一斉に一方向を振り返った。
「この山の静寂を乱そうと来た者では、ないようです。引きなさい」
 その一声と共に、信じがたい現象が起きた。引きなさい、その言葉通り、魔物達は尾を垂れ大人しく、引き下がったのだ。驚愕するファルスディーン達の耳に、杖をつき、足を引きずるように歩いて来る音が聞こえて、声の主が、姿を見せた。
 声に違わぬ、老婆だった。髪は真っ白で、顔も、袖からのぞく手もしわくちゃ、腰は、人間がここまでなるのかと思える程曲がって、とても小さく見える。
「服装から、フォルティア騎士の方々かと、お見受けしますが」
 問われて、礼を失する前に、二人は名乗った。
「フォルティア第一王位継承者、ファルスディーン・フォン・フォルティア」
「護衛騎士、スティーヴ・マクソンです」
 ファルスディーンの名を聞いた瞬間、老婆は、皺の下に隠れて、もう見えないのではないかというくらい細まっていた目を見開き、「ファルスディーン……」と呟いた。しかし、それをすぐに消すと、にこりと笑みを浮かべて、これ以上曲がったのかと思われるほど腰を折り、名乗り返すのだった。
「元フォルティア戦巫女、刈谷千登勢にございます」

 刈谷千登勢は、銀色の狼を引き連れて、ファルスディーン達を山中の庵へ招くと、茶を振る舞った。ファルスディーンは口をつけ、たちまち襲い来るその強烈な香りと、あまりの苦さに、閉口しかけたのだが。
「身の内の傷に良く効く薬草を煎じております。どうぞ、最後まで」
 千登勢にそう言われて、今度は驚くしか無かった。傷を負っている事など、一言も言っていないのに。
「千年、生きておれば、その方がどんな病や傷を抱えているか、見るだけで、わかるようになりますゆえ」
 千登勢がさらりと応えるので、ファルスディーンはぐっと薬草茶をあおった。隣のスティーヴは平然としている事から、こちらには、変哲の無い茶葉が使われたに違い無い。
 ひとごこちついた所で、ファルスディーンは千登勢に、来訪の理由を語り出した。焦れる想いは堰を切って溢れ出し、そのまま止まらないのではないかと云う勢いだったが、千登勢は、時折頷きながら、王太子の話を聞き落とさず、彼が求める物を、きちんと聞き届けた。
「確かに、竜の毒を打ち消す薬は、わたくしの手元にございます」
 老婆は椅子から立ち上がり、薬の並んだ棚の前へ行くと、ひとつの薬瓶を取り出し、ことりと、ファルスディーンの前に置いた。
「我が後輩を救う手助けになるのなら、どうぞ、お持ちください」
「ありがたい。生憎、飛び出して来たので今持ち合わせは無いが、この礼は後日、存分に」
 ファルスディーンが深々と頭を下げると、千登勢は、ゆっくり首を横に振った。
「いえ、お気持ちだけで。ただ望むなら、この静かな暮らしが、乱される事の無いようおとりはからいくだされば、充分にございます」
「……それは、済まなかった。突然押しかけて」
「いいえ、貴方様に嫌味を申したつもりではなく」
 ファルスディーンは憮然となったが、老婆は微かに笑んで続ける。
「ただ、あの方を想い暮らす日々が永遠に続けば、わたくしに、それ以上望む事は、無いのです」
 その、遠い日に想いを馳せる口ぶりに、訊いて良いものかどうか、ファルスディーンは逡巡した。が、遠慮より興味が勝った。
「貴女は」
 千登勢に問いかける。
「何故、千年も生きていられる。いくら戦巫女でも、人間と同等の寿命しか、まっとう出来ないはずだ。それに、元の世界へ帰る事を、何故選ばずに」
 流石にずけずけと踏み込みすぎたと、自分でも思った。もう少し先を考えて行動しろと、昨夜言ったばかりの護衛騎士が、複雑な表情で見下ろして来る。
 しかし、
「わたくしは、贖罪の為に生きているのです」
 しばしの沈黙の後、最初に口を開いたのは、元戦巫女であった。

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