終章:未来―みらい―

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 この世界に来た時、秋だった季節は流れて、春も盛りになっていた。フェーブル城の中庭も、開花が最盛期を迎え、美しい光景を見せつけている。
 その中に未来はたたずみ、これまでの出来事を、回顧していた。それはあまりにも非現実的で、しかし確かにこの胸に、喜びも哀しみも残す、日々だった。
 拒空に消された世界と人々は、再生した。しかしそれ以前の、ヒューリに命を奪われた者、戦いで命を落とした者が、蘇る事は無かった。
 セルマリアを失ったステアは、市井に降嫁していた彼女の妹が王位を継ぐ事になった。忠実なバロックが居れば、かの国が再び乱れる事は、無いだろう。カーレオンが戦死したネーデブルグも、しばらくは、彼の親族が王座を預かるが、いずれサフィニアが婿を迎えると云う。
 戦いが終わり、利久を連れて、アルテム村を訪ね、弟と少年の和解を見届けた後、フォルティアに戻った未来は、ファルスディーンと共に、スティーヴ、それから刈谷千登勢の墓前に、拒空を倒した報告と、深い感謝を述べた。
 それから未来は、一人フォルカ王に呼び出された。王は、フォルティア戦巫女として戦った未来を労い、その後でこそりと、個人的な希望を述べた。
「そなたがあの甥の傍に居てくれれば、私の心配事も、ひとつ減りそうだ。これからも、よろしく頼むよ」
 王の言葉に、未来はただただ苦笑いを返した。この時、未来の中では、既に心は決まっていた。

「未来」
 静かに名を呼ぶ声に振り返ると、ファルスディーンが、花の間を縫って、こちらに向かって来る所だった。
「またここだったのか」
「うん。ここ、好きになったみたい」
「そうか」
 ファルスディーンは未来の隣に並び、しばらく無言で、共に花々を眺めていた。が、不意にこちらを向くと、未来の瞳をじっと見つめて、相好を崩す。
「似合うな、その色も」
 見つめ返す未来の瞳は、もう、金色では無い。日本人として標準的な、焦茶に近い、黒に変わっていた。
 戦いが終わった時、女神アリスタリアが、務めを果たした戦巫女三人に告げたのだ。何でもひとつだけ、願いをかなえよう、と。人殺しや世界征服、幾つでも願いをかなえろなど、無茶なもの以外なら、何でも良いと。
 そこで利久が即座に願った。姉の、元の世界で疎外される原因だった瞳の色を、変えてくれと。そうすれば、未来も普通の少女となって、理不尽な生活を送らなくても済むようになるだろうと。
「俺もいつまでも、姉ちゃんべったりでいられないから」
 それは利久からの、姉離れの宣言でもあった。それで未来の瞳は、黒へと変わった。
 芙美香はしばらく考えた後、己の望みを女神に述べた。
「うちの姉さんに、もうすぐ子供が生まれるんだ。甥だか姪だかまだわからないけど、その子が、元気で良い子に育ちますように、って」
 芙美香はきっと、もっと別の―端的に言ってしまえば、スティーヴを取り戻す―願いを口に出すかと思っていた。未来もファルスディーンも、驚きを隠せなかったのだが、芙美香は少し寂しそうに笑った。
「だって、自分の主を守って、あれだけ満足そうな顔して逝ったんだよ。それを呼び戻したら、あいつの、騎士としての誇りも信念も、曲げる事になっちゃう」
 そう言われては、未来達も、それ以上強く求める事は出来なかった。
 そして未来は、その場で願いを言う事をしなかった。世話になった人々への挨拶が終わるまで待って欲しい、アリスタリアにそう告げると、
「かつて世界を再生させるのにかかった時間に比べれば、瞬きするような間じゃ。いくらでも、じっくり考えればええ」
 女神は笑顔で応じてくれた。
「そうだ」
 唐突に、ファルスディーンが、眉間に皺を寄せた。
「聞いたぞ。お前、グランシャリオのかたに、カーレオン王と婚姻の約束をしていたそうだな」
 どうやら、ネーデブルグ兵からばれたらしい。
「二度と俺に黙って、そんな軽率な真似をするな」
「ごめんなさい」
 久々に、きつく見すえられて、未来は肩をすくめた。
「もうしないから」
 その応えに、ファルスディーンは満足げに頷き、それから、笑顔を向ける。
「お前には、これから、見せたいものが沢山有る」
 彼は言った。
「この大陸には、美しい景色の場所が幾つも存在する。お前が見たいと望めば、何処にでも連れて行ってやるぞ」
 一拍置き、ファルスディーンは続ける。
「何より、これからのフォルティアを。お前と共に、見守っていきたい」
 紫の瞳が、優しく未来を見下ろして来る。
「願いは、決まったんだろう?」
「うん」
 その優しさを愛おしく思う気持ちは、胸に満ちている。しかし。
「願い事は」
 ファルスディーンの笑顔が、次の瞬間には凍りつくだろう事を予感しながら、未来は言葉を紡いだ。

「ファルが早く、私の事を忘れて、幸せになれますように」

 途端に、ファルスディーンの表情が豹変した。驚きから、信じがたい、信じたくない、と云う顔へと、凝り固まる。
「……何故だ?」
 その声色には、憤りすら含まれていた。
「駄目だから」
 未来は、微かな笑みさえ浮かべながら、宣告する。
「私は、元の世界に帰るの。だからファルは、こっちの世界で、早くいい人を見つけて、幸せになって」
 それは、戦いが終わった時、未来が下した決断だった。
 サフィニアは兄を殺された。芙美香はスティーヴの復活を願わなかった。利久はたったひとつの願いを、姉の為に費した。多くの人が、苦しみ哀しんだ。そしてきっとこれからも、辛い思いをする誰かが居る。
 なのに今、自分だけが、幸せになる訳にはいかない。ファルスディーンと自分は、過去来し方も、未来行く末も、重なる事は、無いのだと。
「今まで、ありがとう」
 茫然と見つめる王太子の瞳をまっすぐに見返し、未来は、決別の言葉を投げかけた。
「元気でね」
 そうして、ゆっくりと、ファルスディーンに背を向ける。廊下には、一部始終を見ていたのだろう、利久が複雑な表情をして、立っていた。
「帰ろう、利久」
 未来は弟の手を取った。
「姉ちゃん」
 利久が、それで良いのか、と問う瞳で見下ろしてくる。未来は静かに、しかし深く頷いた。ここで弟の気遣いに甘えたら、きっと帰れなくなる。振り向いて、この手を離して、駆け出してしまう。こみ上げる衝動を、未来は堪えた。
「自惚れるな、この自信過剰女」
 歩き出すと、ファルスディーンが背後から怒鳴った。
「誰がお前の事など覚えておくものか。すぐに忘れてやる!」
 その声が震えていたのは、言葉とは裏腹に、泣いていたからかもしれない。
「だから早く忘れろ! お前も、俺の事を!」
 未来は振り返らなかった。薄く笑ったつもりだったが、失敗して、とめどない涙で、きっと酷い顔をしていたから。
 泣き顔は、見せたくなかった。笑顔だけを覚えていて、そして、忘れて欲しかった。
「さようなら」
 未来は呟いたつもりだったが、声になっていたか、わからない。しかし、それを合図にしたかのように、光の奔流が押し寄せて、あっという間に、こちら側と向こう側を、隔ててしまうのだった。

 気がつくと、未来と利久は、いつもの通学路に立っていた。二人共、服は制服に戻り、パンクしたオレンジの自転車が、傍に倒れている。
 全ては、二人の白昼夢だったのでは無いかと、言われたら、そう済ませてしまえそうだった。しかし確かに、あれが幻などでは無かったと、証明するものが、姉弟には残っていた。
 少しだけ伸びた、利久の身長と髪。黒くなった未来の瞳。ブレザーの内ポケットを探ったら転がり出て来た、オレンジの鈴。
 そして、形が無くとも、確実にこの胸に宿る、様々な記憶と、想いが。
 家に帰り着いた未来と利久は、両親に、経験した事を全て、包み隠さず語った。二人なら、笑い飛ばさずに聞いてくれるという、確信と信頼があった。
 父は、
「よくやった」
 と、姉弟の頭を撫でた。
 母は、
「辛い恋をしたね」
 と、そっと未来を抱き締めてくれた。

 心に刻み込まれた鮮烈な記憶は、やがて、甘い痛みを伴う思い出と化す。幾つもの季節が巡り、歳月は、飛ぶように過ぎ去った。

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