第4章:人魚姫は泡に還るか(5)


「流石は化け物」
 間断無く剣を振るいながら、ジャウマが狂喜にも似た表情を顔に満たす。
「この私の剣を受けられる相手は、地上にはいなかった!」
「化け物なのは、貴様の方だろう」
 トライデントの柄で、穂先で。必死に相手の攻撃を受け流しつつ、サシュヴァラルが声を張り上げる。
「心がな!」
「褒め言葉として受け取ろう!」
 地上にいた頃から、ジャウマに剣で勝てる相手はいなかった。それは彼が血筋だけで将軍の座に収まったのではないという事を証明するのに充分な事象であった。だが、時にその攻撃が行き過ぎて、向かい合った兵の首を落としたり、心臓を貫いたりして、死に至らせた。それでも、咎められる者は誰もおらず――アイビスの言葉を彼は聞かないし、唯一彼に上から意見を出来るはずの姉もまた、その光景を嗤って見ているだけだった――、彼の増長を止める者はエレフセリアにいなくなってしまったのだ。
 その結果が巡り巡って今、サシュヴァラルを危機に陥れている。何とか戦いを止める事が出来ないかと、ふらつきながらも水底を蹴ろうとしたアイビスの腕を、ひんやりとした手がつかみ留めた。
「駄目、アイビス」
 シャオヤンテだった。兄に言われて素直に避難するはずの無い子であると思ってはいたが、まさか最前線まで出てくるとは。アイビスが目を点にすると、ゆるゆると首を横に振って、彼女は続ける。
「ボク達が介入出来る相手じゃない。兄貴の言う通り、キミは下がって」
 その口ぶりに、つんけんした様子は感じられない。普段のそっけない仮面を引きはがすほどに、彼女もまた、アイビスの身を案じてくれているのだ。
「一緒に母上のところへ行こう。ボク達に出来る事は、何も無い」
 言われて、アイビスは辺りを見回す。
 海の民と陸の民。かつての大戦をなぞらえるかのように、祖を同じくする者が、刃を交わし合う。恐怖と、傲慢と、野心と、愛憎。様々な感情が入り乱れて、斬り裂き、突き、叩き潰して、血を流す。かつては同胞であった事を如実に示す、赤い血を。
 その傍らで、ファディムが吼え、また城に体当たりをしている。狂ってままならぬ身を嘆くかのごとく、悲鳴のような唸りを繰り返しては、爛れた皮膚が更に剥がれて、暗い彼方へ消えてゆく。
 本当に、自分に出来る事は何も無いのか。朦朧とする頭で必死に考えを巡らせるアイビスの耳に。
『アイビス、あなたなら出来るわ』
 再び、母の声が聞こえた気がした。
 聞く者を安心させるその優しい声音に導かれるように、己の右手を見下ろす。薬指にはめた蛋白石の指輪が、ほのかな光を放っていた。それで思い至る。レヴィアタンすら敬服させた、海の王族の守り指輪。この力があれば、もしかしたら。
「アイビス?」
 シャオヤンテが胡乱げに呼びかけ、腕を引く。だが、アイビスの決断は早かった。空を飛ぶ時には、一瞬の躊躇が最大の失敗、つまり死を招く。そうならない内に前向きな判断を下すのは、この十数年の人生で、アイビスが身につけた大きな武器だ。それを今振るわないでどうするのか。
 きゅっと唇を引き結び、シャオヤンテの手を振りほどく。少女が名を呼ぶ声を背中に置き去りにしながら、アイビスは力強く水を蹴って、ほとんど人魚のように自由に水中を泳ぎ、戦いの合間を縫って、ファディムの元へと近づいていった。
 哀れななりそこない。その足元へ辿り着くと、風を詠んで着地する時のようにふわりと降り立ち、声を張り上げる。
「ファディム!」
 呼びかけに、なりそこないの動きがぴたりと止まった。のろのろと、崩れかけた顔がこちらを向く。鮫のような歯が並んだ大きな口が、アイビスの名を呼びたいかのようにぱくぱくと動く。かつて汐彩華の中、彼の瞳が自分をまぶしそうに見つめて微笑んでくれた事を思い出せば、胸に迫る郷愁がある。
 だが、それを振り切らねばならない。
「ごめんなさい」
 ただ、詫びる事しか出来ない。これからする事に対してなのか。それとも、これまで積み上げてきたお互いの信頼を、永遠に断ち切る事に対してなのか。わからないまま、繰り返す。
「ごめんなさい」
 なりそこないに向けて突き出した右の拳で、蛋白石がより一層強い虹色の輝きを放つ。
 自分は、ファディムではなくサシュヴァラルを選んでしまった。もう、空は飛べない。彼が恋い焦がれてくれたアイビスには戻れない。それを思えば、水の中なのに視界がぼやけて、ファディムの姿がよく見えなくなる。
「ごめんなさい」
 三度口にした時、歪む世界の中で、虹色の光に包まれ、なりそこないの体躯が、ぼろり、と崩れ出す。鰭が、足が、首が、粉になって灘雪と一緒に水に溶けてゆく。
『アイビス』
 最後の胴体が消えゆこうとした時、それまでの苦しげな呻きではなく、いつも聞いていた、穏やかな義兄の声が、名を呼んでくれた気がした。
『ありがとう』
 さようなら、どうか、幸せに。
 その響きを最後にして、虹色の光は収まり、なりそこないの化け物がいた形跡は、城の柱のひびだけを残して、すっかり消え去った。
 涙は水に溶けて出なかった。アイビスは顔をうつむけて、嗚咽を洩らす。そこにシャオヤンテが静かに寄り添い、そっと肩を抱いてくれた。

「何だと!?」
 ファディムの姿が消えた事に驚愕したのは、そこで戦っていた全ての兵もだった。ジャウマも例外ではなく、剣を振るう手を止めて、思わずなりそこないがいた場所を振り向く。
 それまで防戦一方だったサシュヴァラルは、最大の好機を逃さなかった。勢い良く突き出したトライデントは、将軍の鎧を容易く突き破り、胸板を貫いた。
 喀血の声と共に、ジャウマが血を吐き出す。だが。
「まだだ、まだ、私は負けていない!」
 赤茶の目に怒りを燃やして、彼は尚も倒れなかった。ぐっとトライデントの柄を握り、引き抜こうと力を込める。その手が、ごきり、と妙な音を立てて肥大化を始めた。手も、憎々しげに歪んだ顔も、ぱきぱきぱき、と褐色の新たな皮膚に覆われ出す。
「お前」変貌を始めた敵を唖然と見つめていたサシュヴァラルが、半眼になって呟いた。「盛られたな」
 ほんの少しで、ひとをひとならざるものに変える毒。それを手に入れたタバサが、ファディムに使うだけで満足するはずが無かったのだ。
「あ、ああ、まさか、あの酒に……」
 人間ではなくなってゆく己の両手を愕然と見つめながら、ジャウマが絶望にとらわれた声をあげる。それは次の瞬間には、「タバサ!!」と激昂に変わっていた。
「あの女狸めだぬき、私までをもたばかったか!!」
 それまで絶対の自信に満ちていた野心を挫かれた男は、ごぷり、と更なる血と共に呪詛を吐き、憎々しげに顔を歪める。
「滅びろ、滅びろ! 私が王になれぬ、あの女の支配する国など!!」
「では、貴様の望み通りにしてやろう」
 ジャウマの恨み節を断ち切ったのは、その場に滑り込んだ、絶対零度の声だった。水を切って振るわれた錫杖が、彼の首を永遠に胴体と泣き別れにする。
 驚愕に凝り固まった男の首と、ほとんど人間の痕跡を残さなくなってしまった身体が、血の尾を引きながら、ゆらり、と流されてゆく。それを冷たい深海色の瞳で見送っていたメーヴェリエル女王は、ジャウマの姿が闇の向こうに消えて見えなくなると、しゃん、と錫杖を鳴らし、その場で戦っていた者達全員に呼びかける。
「地上の民の首魁は討ち取った。争いをやめよ。従わぬ者は、地上も海も問わずに、わらわが罰を下す」
 静かだが、有無を言わさぬ迫力を込めた女王の言葉に、逆らう気概を持つ者は誰もいなかった。誰もが武器を下ろし、エレフセリアの兵は力無くうなだれて、戦闘は閑寂の彼方へと去っていった。
「地上の民は、またも我らを脅かした」
 静まり返った海底に、深い怒りを包括したメーヴェリエル女王の声だけが、凜と響く。
「お互いに侵略をしないという文無き盟約に反したエレフセリアを、許してはおけぬ」
 その言葉に、生き残ったエレフセリア兵が狼狽え始めた。タバサに命じられ、ジャウマに率いられたとはいえ、直接海の民を攻めた尖兵は自分達だ。手始めに首をはねられても文句を言えない状況である事は、彼らも理解したらしい。たちまち恐慌が訪れる。
「お待ちください、伯母様。いえ、メーヴェリエル陛下」
 混乱の渦に一石を投じたのは、アイビスだった。蛋白石の光を浴びた効果もあったのだろうか。身を苛んでいた熱は去り、しっかりと周囲を見渡す事が出来るようになった目で、まっすぐに女王を見すえる。
「今回の事は、わたしの姉とジャウマが企んだ事。戦わされた兵や、エレフセリアの民に罪はありません」
 それでも、と。はっきりした口調で、アイビスは言い切った。
「それでも、エレフセリアが許せないとおっしゃるのであれば、どうか、わたしの命を引き替えに、民の命はお見逃しください」
 途端に、メーヴェリエルは半眼になり、アイビスに問うてきた。
「それは、『海の女王の姪』ではなく、『エレフセリアの王女』としての願いか?」
「はい」
 迷い無くうなずけば、女王は値踏みするような眼力でアイビスを見つめる。サシュヴァラルやシャオヤンテが心配そうに見つめる気配を背中に感じたが、ここで目を逸らしたら負けだと思い、直立不動のまま、女王の返事を待つ。
 永遠のような時間が流れた。あるいは、ほんの数秒だったのかもしれない。ふっと、メーヴェリエルが相好を崩し、
「つくづくリーゼロッテに似て、一本気な娘よの、そなたは」
 と肩をすくめてみせた後、神妙な表情を顔に満たした。
「よかろう。民は見逃そう。兵も地上へ帰そう。罰は王族のみに下す」
「母上」
 罰は王族のみに、という言葉を聞いたところで、慌てた様子のサシュヴァラルが制止をかけてきた。が、女王は息子を鋭い一瞥で黙り込ませて、「だが」と続ける。
「妹の娘であるそなたをみすみす地上に帰して死なせたくはない。選んでたもれ。海の民として生きるか、陸の民として死すか」
 その口上を聞いた時、アイビスの耳は勘づいた。女王はもう、地上の言葉を使っていない。海の言葉でアイビスに語りかけている。だが、これまで感じていた、「翻訳されている」という違和感を覚えない。アイビスがそこまで海に順応した証拠なのだ。
 もう、元には戻らない。
 瞑目し、ひとつ、ふたつ、もう必要無いのかもしれない深呼吸をして、アイビスは、海の言葉で宣誓した。
「エレフセリア第二王女アイビスは、死にました」
 それは、もう二度と地上の民には戻らないという誓いだった。
 汐彩華舞う中、風を受けて空を飛ぶアイビスを見守ってくれた子供達。新鮮な魚を届けてくれた気の良い漁師。姉に虐げられる妹姫を、それでも慕ってくれた人々。エレフセリアの全てが悪ではないという、アイビスが後ろを向かずに生きてこられた証左だ。
 それを今、全て、捨てる。その宣言を、自分はしたのだ。
「……承知した」
 アイビスの覚悟を受け取ったメーヴェリエル女王は、しゃん、と錫杖を鳴らした。途端、海底に残っていたエレフセリア兵の姿が忽然とかき消え、追いかけるように、海流がひとつの渦を巻いて地上を目指していった。
「アイビス」
 同じ温度になったサシュヴァラルの手が掌に滑り込み、心地良い声が鼓膜を震わせる。この手を、この声を選んだのだ。アイビスは顔をぐしゃぐしゃにして、その逞しい胸にもたれかかる。熱はもう無い。海の全てが、かつての空のように身に染み渡る。
 エレフセリア王女は、泡にならずして死した。
 そして、新たな人魚姫が、誕生したのであった。

「おっそいわね」
 エレフセリア王宮のウッドデッキで椅子にかけ、茶器をかちかち鳴らしながら、タバサは悪態をいた。
 毒を飲ませたファディムを使って人魚の血を探り当て、ジャウマ達を海底へ送り出した。そろそろ金銀財宝を手にした彼らの帰還があっても良い頃だが、その気配はいまだ無い。
「まったく、どいつもこいつも、結局役立たず」
 大方、人魚達にたぶらかされて海底に居着いたのだろう。それならそれでまあいい。ジャウマにも人ならざるものに変態する毒は仕込んである。失敗すれば、兵や海底の民もろとも、海の藻屑となるだろう。邪魔者は全員消えて、自分の思い通りになるエレフセリアが生まれる。
 その後は、夫を海で亡くした悲劇の王女を装って、顔も頭も良くて自分の意のままに動いてくれる、年若い男を婿に迎えれば良い。四十路のジャウマなどという汗臭い男に抱かれるところなど、想像しただけで鳥肌ものだったから、せいせいした。
 そんな事を考えながら、ずず、っと汚い音を立てて茶をすすった時。
 突如、それまで雲ひとつ無かった蒼穹に、暗雲が立ちこめた。暗くなった天空の下、アリトラの海が騒ぎ始める。波は次第に渦を成して、まさに海竜のごとくなると、自分――そう、たしかにタバサだけを狙って迫ってくるではないか。
「な、何!? 何なのよ!?」
 思わず茶器を放り出す。甲高い音を立てて高価な茶器が割れ、中の茶が破片と共にまき散らされるのも構わずに、波に背を向けて一目散に走り出す。だが所詮人間の足。迫りくる脅威はあっという間に追いつく。
「誰か! ちょっと、誰かいないの!? 助けてよ!!」
 怒鳴っても、誰の応えも返らない。
「ああ!」
 振り返った瞬間、波が巨大な獣のようにそそり立って自分に覆い被さってこようとするのを目の当たりにし、タバサはそのそばかす顔を心底の恐怖で引きつらせ、吐き捨てるように怒鳴り散らす。
「何であたしばかりがこんな目に遭わなくちゃいけないのよ!?」
 最期まで愚かだったエレフセリア第一王女の命と王宮を、波は竜のごとく丸呑みにし、跡形も無く消し去った。

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