2:水蓮編(1)
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「ぐ……おお……ぐおおおお……」
 エントコ山からほど近い町にある、宿の一室に、低い唸り声が響いていた。腹の底から揺さぶるようなその呻きは、一見、いや一聞すると竜の声のようにも聞こえるが、こんな町のど真ん中に竜はいない。万一出現しようものなら、町は大パニックどころか滅亡の危機だ。
 そんな「万一」の事態に陥った時、竜を倒す腕利きの戦士達、『狩竜士かりゅうど』がいる訳だが、今この時、頼りにすべき狩竜士は、まさにベッドの上で唸り声をあげている真っ最中であった。
溶炎ようえん』を倒して、一日。
 最強の白竜『真白まつくも』リルの宣告通り、彼女の力を借りて戦ったライルは、反動である地獄の筋肉痛に苛まれていた。
『わらわの力を得られるのだ。安い代償だろうて』
 リルはそうけろりと流したが、これは笑ってやり過ごせるものではない。起き上がるどころか寝返りを打とうとするだけで、全身がこわばり、身体中の神経がぶち切れそうな痛みが駆け抜ける。しかめる顔までぎちぎちと悲鳴をあげて、もういっそこの身まるごと脱皮したい気分になる。
「おお、おお、苦しんでおるな」
 まるで他人事とばかりにのんびりとした声が聞こえて、ライルは突っ張る首をそちらへぐぎぎぎ、と向ける。薄桃の髪に琥珀色の瞳の少女――は仮の姿で実は竜――リルは、湯気立つ粥が盛られた皿と、水の入ったコップ、それらが載った盆を抱えて、とことこと室内へ入って来た。少女趣味ロリコン疑惑が広まってはとんでもないので、昨夜は宿の部屋を別々に取ったのだが、千年近くを生きる竜には、人間の男女の慎みも知った事ではないらしい。
「お、前があ……」
 ぎちぎちち、と錆びた金属音が聞こえて来そうなぎこちない動作で、ライルはリルに向かって手を伸ばす。
「お前が、勝手にやらかした事の、結果だろうがああ……! 悠々としやがって……!」
 ライルの怒りはしかし、最強の竜の少女にはミジンコ並の攻撃にもならなかったようだ。ゆっくりとベッド脇に近づいて来ると、サイドテーブルに盆を置き、「ほう?」と顎に手をやってこちらの顔を覗き込んで来る。
「わらわが力を貸してやるどころか、守りや回復の術を使わねば、貴様は今頃『溶炎』のおいしいご飯になっていただろうて? わらわのおかげで、筋肉痛だけで済んで生きているのだぞ。感謝こそされど、恨まれる筋合いは、わらわにはとんと心当たりが無いがのう?」
 三日月型に持ち上げた唇の隙間から、ぎらり、と牙が覗く。返す言葉も無い。彼女と契約を交わして、狩竜士ならぬ『狩竜奴かりゅうど』になってしまったライルは、がっくりと頭を枕に沈めて、反撃の言葉を呑み込むしか出来なかった。
「まあ、わかれば良い」
 勝ちを得たリルは満足げに胸を張り、それから、サイドテーブルに載せた盆を、掌は小さいがそれに反して長い指でとんとんと叩く。
「昨日の貴様の働きを評価して、わらわ手ずから朝食を作って来てやったのだぞ。涙流して感謝しながら食うがええ」
 その言葉につられ、じりじりと頭を起こし目線を送れば、麦粥には生みたて卵が落とされいい感じに半生になっており、良いにおいがして、筋肉痛に苛まれて忘れかけていた空きっ腹を適度に刺激して来た。
 全身の痛みも放り出して、ライルは身を起こすと、匙を手にして卵の黄身を粥にかき混ぜて、ぱくりと口に含む。
 そして咀嚼して三秒後、彼の目からぶわりと涙が溢れ出し、口からは全身全霊をかけた感想が迸った。

「――炭酸レモンと土の味いいいいい!!」

 直後、竜の膂力を込めたリルのビンタ一撃が彼を襲った件は、特筆するまでも無い。
 いわんや、ライルが頬を張り飛ばされて顔が変形しかけながらも、
「今後の食事はどれだけ金を浪費しようと、必ず食堂で取る」
 と決意した事は。

 翌日。
『きっかり一日で終わるから、四の五のぬかすでないわ』
 と、リルがぷりぷりしながら粥を片づけつつ言った通り、睡眠から目覚めれば、地獄の筋肉痛はぴたりと止んでいた。鏡を覗き込めば、食らったビンタの痕は見事に真っ赤な手形を残していたが。
 宿の裏の汲み上げ井戸で顔を洗うついでに頭まで水をかぶり、絞った布で身体を拭ってすっきりすると、ライルの元にリルがやって来て、やはり偉そうに腕組みしながらこちらを見上げて口を開いた。
「回復したなら、行くぞ」
 何の話をしているのか、即座にはわかりかねたが、狩竜士にとって判断力の低下は死を招く致命的な欠陥だ。すぐに理解する。
「次は『水蓮すいれん』か?」
 ライルが真剣な声色で訊ねると、リルは唇を引き結んでしっかりと頷いてみせた。
『水蓮』も『溶炎』に負けず劣らず有名な竜だ。しかし、エントコ山に棲んでいる、と所在がはっきりしていた『溶炎』に対し、『水蓮』は「この国の真ん中あたりに棲んでいるらしい」という伝聞が人々の間に流れているだけだ。正確な位置をライルは知らない。
 だが、ライルのそんな疑念もリルはお見通しだったのだろう。
「そんな顔せんでも、わらわは力の欠片の影響で、竜達と繋がっておる。居場所なら大体割り出せるわ」
 琥珀色の瞳を半眼に細めて、あっけらかんと言ってのけたのだった。
「オルシナ湖に奴の気配を感じる」
 オルシナは、確かにこの国の中央辺りに存在する、巨大な湖だ。周辺の町や村の水源として、非常に大切にされている上、昔からあった『オルッシー』の名を持つ首長な主の目撃情報は、軽々百を超える。恐らくそれが『水蓮』なのだろう。
「飯を食ったら、必要な物を買い揃えて出発じゃ」
 オルシナに向かうには、エントコに向かった時より更に長い道程を辿らなくてはならない。腹が減っては戦は出来ぬ。だが、リルお手製の食事を取っては、また酸っぱさと苦さが奏でる煉獄ハーモニーに撃沈するのだと、昨日で身に沁みた。食堂できっちり朝食を取るつもりで、ライルは脳内で財布に残る硬貨の枚数を数えるのだった。