2:水蓮編(5)
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水蓮すいれん』はまさに叫びの通りだった。下の牙が発達してぎらりと上を向く口を持ち、目は一つで角も一本。大陸東方に伝わる『鬼』によく似た顔をしている。そして身体は碧の鱗に覆われた、長い胴体を持っていた。水上に顔を出すだけでライル達の乗るアヒルを高みから見下ろすのだから、水中に隠れた部分がどれだけの長さがあるのかは、はかり知れない。
溶炎ようえん』の時もそうだったが、『真白まつくも』の力の片鱗を持つ竜というのは、どいつもこいつも竜の常識を軽々とぶっ飛んでいった、規格外の奴ばかりなのだろうか。いやそもそも竜というものの存在自体が、人間にとってはぶっ飛んでいるのだが。
 ぐるぐる考え込んで目の前が一瞬真っ暗になりかけたが、怯んでいる場合ではない。ライルは立ち上がり背中の大剣の柄にぐっと手をかけると、一気に引き抜いた。舟のバランスが崩れて大きく揺れ、「危ないじゃろうが」とリルがまたもぶうたれるのを無視すると、アヒルの屋根に手をかけ、片腕だけの力で己の身体をぐうんと持ち上げ、屋根の上に飛び乗って、『水蓮』と向かい合う。
 自分に刃向かう人間の存在を感じ取ってか、『水蓮』の一つ目がぎょろりとこちらを向き、すうっと細められる。目障りな奴が現れたとでも思っているのだろうか。それとも、矮小な人間ごときが挑もうとしているのを侮っているのか。けけけけ、と笑うように喉を鳴らす音が聴こえた。
 だが、『水蓮』は大きな勘違いを犯している。今、目の前に立つライルはただびとではない。百戦錬磨の狩竜士かりゅうどだ。しかも今は、最強の竜であるリルの力を借りている。地獄の筋肉痛が待っているとしても、このまま『水蓮』に食われるよりは遙かにましだ。
 ライルは、たん、と屋根を軽く蹴ると、『水蓮』目がけて跳躍した。その図体でそこまで跳べるのかというほどに軽やかなその姿は、歳若い美青年がすればとても良い絵面になっただろう。だが、実際に今跳んでいるのは、いい歳こいたおっさんである。蛇のような竜に向けて空を飛ぶおっさん。実に奇っ怪な光景である。
 目指すは一点集中、竜の眉間だ。最大の弱点めがけたライルの跳躍はしかし、『水蓮』が、ごう、と吼えた途端に湖から巻き上げられた水流に邪魔された。リルにはたかれた時並の衝撃ががつんと襲いかかり、弾き飛ばされた身体は『水蓮』に届く事無く水中へと落下した。
「ごばばばばばぁッ!」
 濁って視界の悪い水中で、ライルは失くすまいと片手に大剣を握ったまま、もう片方の手で必死に水をかいてもがく。しかし重たい得物を抱えた筋肉ダルマ。浮けと言うのは、運動音痴にサーカスの火の輪くぐりをしてみせろと難題を押しつけるほどに無謀な話であった。
 口からはごぼごぼと無駄に空気の泡が吐き出される。息が苦しい。このままでは遠からず、湖の底に沈んで哀れ溺死だろう。焦りは混乱を呼び、ますます無駄に手足を動かす羽目になる。
 だが、意識がぼんやりとし始め、川を挟んだ向こうのお花畑で亡き養父が手を振り何言か口を動かしているのが見え始めた頃、唐突に、ぽん、と音がして、ライルの身体は水底へ沈んでゆくのをやめた。
 呼吸が出来る。それを確信した途端、肺が空気を求めて暴れるままに、意志に関わらず深呼吸を繰り返す。そうしてお花畑の幻影が消える頃、代わりに眼前に映ったのは、心底あきれかえった琥珀色の瞳だった。
「貴様、あほか」
 開口一番、リルはばっさり切り捨てた。
「泳げないならさっさと言え。いくらわらわでも、採れない木の実に手を伸ばせとは言わなんだ。そういう時は梯子を用意してやる優しさくらいあるわい」
 そうして彼女がぐるりと視線を巡らせるのに合わせて、ライルも周囲を見渡す。大きな空気の泡が二人を包み込むように現れ、それで呼吸が出来るようになったのだと知る。
「だが、これじゃあ肝心の『水蓮』の姿が見えないぜ」
 水は相変わらず濁ったままで、『水蓮』がどこにいるのか、どこまでの長さなのかは、やはりうかがい知る事はかなわない。が。
「どあほ」
 腕組みして睨み上げるリルから飛んで来たのは、非常に簡潔な罵倒の言葉だった。
「何の為にわらわがおる? 他の竜の存在を感知出来ると言うただろうが」
 にやっと牙を見せてリルが笑みをひらめかせる。この顔をした時の彼女は、己が優位に立っている事に殊更の自信を持っている時だ。それはここ数日の付き合いながらも確信した。
「この泡は、水は通さぬが、こちらからの刃は抵抗無く通す。『水蓮』の元まで飛ばしてやるから、貴様は遠慮無く剣を振るえ」
 言うが早いか、二人を囲む泡がふわっと動き出す気配が身体に訪れた。ライルとリルを包み込む空気の膜は、しゃぼん玉が空を舞うように軽く水中を移動する。しゃぼん玉よろしく簡単に割れたらどうしようという考えがライルの胸に襲いかかって来たが、泡の強度をリルが自信を持って保証した為、それを信じる事に決めた。
「そら、ゆけ」
 濁った水の中でも、至近距離に迫れば何かがあるのは見える。リルに促されて、眼前に現れた碧の細長い胴体向けて、ライルは遠慮無く大剣を薙ぎ払った。泡を突き抜ける時に多少の抵抗はあるかと思ったが、しかし泡の膜は紙を切るような反応すら無くすんなりと刃を受け入れ、突き通した。『真白』の力を得た大剣は容易く『水蓮』の胴体に突き刺さり、水中に赤黒い血が噴き出す。痛みを覚えたか、胴体がびくりと跳ねた後じたばた暴れ、余計に傷口を広げる。
「ほれほれ、どんどんいくがええ」
 ライルが刃を引き抜くと、リルがひらひらと片手を振る。それを合図にしたかのように泡はすいすいと水中を移動し、『水蓮』の周囲を飛び回る。碧の鱗が見える度にライルは斬りつけ、オルシナ湖に竜の血が流れ出した。
 さんざん痛めつけられて、『水蓮』も怒りを覚えたのだろうか。水上でごおおお……と嵐前のような唸りが聴こえたかと思うと、何かが水中に飛び込み、高速で近づいて来る音と気配を悟る。
 きっと来る。業を煮やした『水蓮』が。ライルは大剣を握り直し、来たる敵に備える。リルも真顔になって腕組みし、「抜かり無く狙えよ」と言い含める。
 ごぼぼぼ……とあぶくが周辺の水の中を舞ったかと思うと、ぐわりと大口開けた『水蓮』が、こちらを泡ごと呑み込もうと迫って来た。ライルは空気の膜の上でしっかと足を踏み締め、応と気合いを吐きながら大剣を突き出す。逆さ牙の口内に刃が吸い込まれ、『水蓮』はあまりの痛みに、耳障りな悲鳴をあげてのけ反る。その間に二人を包む泡は竜の頭上へ回り込み、一本角の下、目の上、眉間と思しき場所に、大剣が突き立てられた。
 ごばあああっと。断末魔の咆哮の代わりに無数の泡が吐き出される。しかしそれが唐突に途切れ、『水蓮』はだらしなく顎を落としたまま上昇して行った。ライル達もそれを追って水面へと浮上してゆく。
 水上へ出た途端、泡はぱあん! と風船が割れるような音を立てて破裂した。ライルは慌てて目の前にあったアヒル舟の屋根へしがみつく。リルは余裕を持ってアヒルの座席へと軽い足音で降り立った。
 周囲を見渡してみる。眉間への一撃で事切れた『水蓮』の死体は、顔だけがぷかんとオルシナ湖面に浮かんでいる状態だった。ライルはアヒルの屋根を蹴ってその顔に飛び乗り、『溶炎』の時リルがそうしていたように、眉間の傷に手を突っ込んで中を探る。やがて、こつん、と何か硬い感触が指先に触れ、明らかに肉とは違うそれをつかむと、勢い良く引き抜く。青色の拳大の石が、きらきらと輝きを放っていた。これが『真白』の力の欠片だろう。
「ほら」
 背後に少女がやって来た気配を感じて、石を差し出そうと振り向き、ライルはその眉間に皺を寄せ首を傾げる羽目になった。
 リルが、今まで見た事も無い驚き顔をしている。琥珀色の目を見開き、唇を細かく震わせて、何かを言いかけそして呑み込む、そんな所作を何度か繰り返す。
「……何ともないのか、貴様?」
「何がだ?」
 信じられない、という声色の問いかけの意味がわからず、ライルはますます眉根を寄せる。リルは顔を伏せ、「そうか、わらわの力を貸す者は、そうもなるのか。それは知らなんだ」と、ライルにはわからない何事かをひとりごちた後、小さな手を伸ばして、ライルから青い石を受け取った。
 石が更なる光を放ち、リルの胸に吸い込まれる。今度は前回のような視覚的な容姿の変化を見せなかったが、彼女が力をまたひとつ取り戻したのは間違い無いようだ。
「さて」
 気を取り直したリルが『水蓮』の顔の上でしっかと足を踏み締めると、まるでこれから合奏の指揮でもするかのように両手をさっと宙に舞わせた。途端、その手から青い光が溢れ、あっという間にオルシナ湖全体へと広まってゆく。
 すると、あれだけ濁っていた水が、透明度を取り戻していった。雲の合間から顔を出した太陽光に照らされて、きらきらと美しい輝きを放つ。
 と同時に、『水蓮』の身体が、水に溶けるかのように消滅してゆく。いきなり足元が無くなり、ライルは再び水中に落っこちて「がぼぼぼばあッ!」ともがく羽目になったので、リルがあきれ顔でもう一度空気の膜を作って彼を包み込み、アヒル舟まで連れ戻す事態となった。
 光る水上をもう一度アヒルを必死に漕いで岸辺まで戻ると、ライルは舟から降り、腰に手をやって、静けさを取り戻した湖を見渡す。これなら再び観光客もやって来るだろう。
「対岸同士の村々にも、水の流れは正しく戻っただろうて」
 リルが隣に立ち並び、穏やかに吹き始めた風に薄桃色の髪を遊ばせながら、ぽつりと呟いて、こちらの顔を振り仰いだ。
「どうする、様子を見に戻るか? ちゃんとした謝礼ももらってないしの」
「……いんや」
 問いかけに、ライルはぼりぼりとちぢれ毛の茶髪をかきながら、ぼやくように答える。
「確認するまでもねえ。それに、あいつらの顔を見たくない気分だ」
 それを聞いたリルがきょとんと目をみはり、それから、「さすが我が狩竜奴かりゅうど」とにやっと牙を見せた。
「わらわと意見が合うようになってきたようだの」
 水源が元に戻った事で、村人達はしばらくの間はいがみ合う事無く穏やかに暮らすだろう。しかし喉元過ぎれば熱さを忘れる。いつかは自分達の欲で危機に陥った事など忘れ、再びお互いの益を巡って争い合うかもしれない。
 悲しいかな、人の欲は果てしない。もっともっとと、上に生る実を目指して手を伸ばし、下で支えていてくれる相手の事を忘れてしまう。そんな欲まみれの人間達を、ライルも長年の狩竜士生活で繰り返し見て来た。
 そういう人間に深く関わり合ってしまえば、自分も底無しの泥沼に引き込まれる。リルと出会う前に割と長居をしていた村でも、必要以上に村人達と距離を詰めないのが、ライルの身に染みた性分であった。
 だのに、今。
 この幼女の姿をした竜とは、浅い付き合いどころか、世界の命運を賭けた一蓮托生の仲だ。人生、何が起こるかわかったものではない。
「……なんじゃい、まーたじろじろ見おってからに」
 リルがぷうと頬を膨らませ、じろりと見上げて来る。
「いや」
 薄く笑って肩をすくめ、ライルはふいっと顔を逸らした。
「また地獄の筋肉痛が来る前に、さっさと次の村へ向かいたいなーって思っただけだぜ」
「美味い飯が食える場所だといいの」
 澄んだ水が打ち寄せる岸辺に、大小二人分の足跡が刻まれる。それは波に洗われ、次第次第に消えてゆくのであった。