3:時風編(4)
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「……ふうん」
 いつもの、実年齢とはかけ離れた、愛らしい格好通りの高い声はどこへやら。年相応――人間は数百年も生きられないから、竜の数百歳が人間換算でどれくらいかはわからないが――の、ひどく大人びた低い声が、小さな唇からこぼれ落ちる。
「所詮ナギネはたかだか十数年生きただけのひよっこだの。悪事を働く人間が一度罰せられただけで本当に改心すると信じられるあたりが、若い証拠じゃて」
 凪音が驚きに目を見開き、ぽかんと口を開けたまま固まってしまう。
(やっちまった)
 ライルは顔をしかめてがりがりともじゃもじゃ頭をかきむしる。リルがあまりにも人間じみた言動をするので忘れかけていた。竜と人の間に隔たる感覚の違いは、きっとライルが把握しているより大きい。リルはきっと、今まで生きて来た数百年でも、同じような人間の悪意を目にしただろう。凪音はその地雷に触れてしまったのだ。
 人間ならば、凪音の肩を持ってリルをなだめるべきなのだろう。だが今、ライルはリルの狩竜奴かりゅうどだ。人間のエゴに憤る彼女の気持ちが、わからないでもない。仕返しの方法はどうあれ、彼女の怒りはもっともなのだ。
 人に沿うか、竜に沿うか。
 逡巡したライルの思考を断ち切ったのは、段々と近づいて来る、恐慌に満ちた悲鳴であった。
 ひとまずこの件を置いて、ライルが、リルが、凪音が、そしてぐるぐる巻きの人さらいが、同時に声の方向を向く。
「うわあああああああ!!」
 世界の終わり、などとどこかの楽団名じみたものを見たような恐怖で顔を満たして林の向こうから駆け来たのは、さっき馬から振り落とした人さらいの一味だった。限界まで目をおっぴろげ、絶望の叫びを解き放って、迷わずライルの元へ飛びつく。
「なあ、あんた、狩竜士かりゅうどなんだろ。助けてくれ、助けてくれ!」
 理解をする為に重要な要素が、話からごっそり抜け落ちている。何故、さっきとっちめてやった男に、狩竜士だからと助けを求められるのか。ライルの思考はしばし脳内を彷徨したが、いち早く察したのはリルだった。
「この話は一旦置く。ライル」
 スカートの裾を翻しながら、男が駆けて来た方向をぎんと見やる。それでライルも気づいて、背中の大剣を抜く。一拍遅れて凪音も抜刀した。
 凪音は直接感じた訳ではないだろうが、リルの力の片鱗を宿したライルならばわかる。神の竜『真白』が感知し警戒する存在といえば、ただひとつ。それが迫って来るのを、狩竜士も感じる。
 リルが目を細めて、ぴしゃりと打つようにその名を呼んだ。
「――『時風ときかぜ』!!」
 応えるように、びょう、と、台風並の風が林の中を駆け抜け、折れそうなほどに木々を揺らす。小さいが強力な竜巻が足下から向こうまであちこちで起こり、腐葉土の元で育ったキノコやシダ類を引っこ抜いてゆく。
 その後から一同の目の前に現れたのは、美しい鳥とも呼んで差し支えない生物だった。羽色は蛍石のようなアイスグリーン、瞳はリルと同じ琥珀だ。
 だが、やはりその他が規格外だった。どうやってこの林を飛んで来たのかと疑問を持つほどに、広げた羽の幅は大きい。尻尾は孔雀の羽でも尻にぶっ刺しまくったのではないかと思うようなカラフルさ。そして何より、顔が鳥ではない。牙と角を持つ爬虫類系の、いかにも竜という体をしている。
 昔、とある国の王都に滞在していた時、暇つぶしに入った図書館で何となく開いた幻獣辞典。そこにあった、人間達が考え出した架空の魔物の中に、フレスベルク、という、永遠の冬を司る氷色の魔鳥がいたのを思い出した。『時風』はまさにその姿に似ていたのだ。
「おいおいおいおい」
 ばっさばっさと翼を羽ばたかせながらこちらを睥睨する『時風』を油断無く見すえつつ、ライルは顔をしかめてぼやく。
「『時風』はハカルクの森とその周辺から降りて来ないんじゃなかったのかよ」
『時風』が轟、と吼えると同時、霜を含んだ冷たい風が吹きつける。ぴりぴりと肌を刺す冷気を、頭を振って払い落とししながらライルがぼやくと、リルの表情がますます苦々しいものに変わった。
「『水蓮すいれん』の時に言ったじゃろ。竜は人間の悪意に鋭敏だ。すぐに負の気の影響を受ける」
 そうしてじとりと、足下で簀巻きになっているのと頭を抱えてぶるぶる震えている人さらいどもを見下ろす。こんな悪行が膝元で横行していれば、『時風』も狂うのは容易かっただろう。山から冷気を吹き下ろして近隣集落の田畑を荒らすのも、こういった輩に悪影響を受けた『時風』が暴走した結果の、村人達にとってはとんだとばっちりだった訳だ。
 いや、今はそんな事はどうでもいい。折角、目的の相手が自らお越しくださったのだ。最大限の歓迎をしなくてはならない。
 ライルは大剣を構えて、足を踏み出した。既にリルの『真白まつくも』の力は身に乗っているらしく、得物の重さも己の体格も感じずに軽々と跳ねられる。重量級のおっさんが突然身軽に走り出した事に、凪音が目を点にしているのが、横目でうかがえた。
 たん、とひとつ地を踏めば、その身は軽々と跳ね上がる。驚異の跳躍力に、凪音が更に目を真ん丸くして、リルが腕組みしたままにやっと笑うのが、視界の端で見えた。
 近くの木々の幹を蹴りながら、『時風』に肉薄する。太い枝に手をかけ、ぐうんと身体を持ち上げて、宙に浮く竜の図体より更に高い位置へと飛び上がった。
 ちっぽけな人間が、自分より上位を取った事が、相当お気に召さなかったらしい。『時風』は不服そうに唸って、がばりと口を開くと、その喉の奥から氷の粒を吐き出した。
 氷点下の冷気に、たちまちライルの顔や腕、髪に霜がつく。一瞬怯んだが、『溶炎ようえん』の炎のように、当たれば即おだぶつの攻撃ではない。
 大丈夫だ、いける。
 ライルは、子供が見たら確実に泣き出しそうなあくどい笑みを口の端に浮かべる。最早どちらが悪なのかわからない。いやそもそも、竜と人という、言葉も通じない種族同士の争いに、正義の在り処など無いのかもしれないが。
 そんな事を考えながら、落下の速度に威力を乗せて、大剣を降り下ろす。鳥のように柔らかいかと思った『時風』の身体はしかし、かん、と甲高い音を立てて、刃を弾いた。
 羽毛かと思っていたものは鱗なのか。『水蓮』にも負けない強度に吃驚しながらも、更に高く飛び立とうとする『時風』の背中に取り付き、翼の根元をがっしりとつかんで、振り落とされまいとしがみつく。
 翼をつかまれた『時風』は、上手く羽ばたけないのか、ふらふらと蛇行しながら高度を下げ、あちこちの木にどがん、どがん、とぶつかりながら、何とかライルを落っことそうと必死だ。頭上間際を竜が通過した事に、人さらいの男どもは、絹、いやぼろぞうきんを引き裂くような野太い悲鳴をあげた。一人は頭を抱えて「恐いよ恐いよお母さんお母さーん」と、最早大人としての尊厳もへったくれもない事を念じているが、簀巻きにされた方は、目を見開いて泡を吹いたまま微動だにしない。どうやら耳も塞げない状態で『時風』を至近距離で見た衝撃で、失神したようだ。
 そんな光景を置き去りにして、『時風』が今度はぐうんと上空へと舞い上がったかと思うと、ぐるりと一回転した。逆さまになってライルを振り落とすつもりなのだろう。慌てて翼をつかむ手に力をこめる。
 だが恐らく、この高さから落ちてうっかり首の骨を追っても、死にかけのライルを回復させる事は、リルには可能だろう。それは『溶炎』との戦いで身に染みている。
『真白』の力に頼って死をも恐れない心になっている。すっかり『狩竜奴』の名に相応しくなっていたな、と、自嘲気味に唇を歪めると、元の姿勢に戻った『時風』の翼の根元目がけ、大剣を容赦無く突き立て、振り抜いた。羽根に見えた鱗がばりばりと音を立てて弾け飛び、赤黒い血が噴き出して、ライルの顔にかかる。空を飛ぶ為の片翼に傷を受けて、『時風』の高度が目に見えて下がった。
 再び『時風』がどがん、どがんと木々にぶつかる。しかしそれは先程のように、ライルを振り払おうと意図して飛んでいるのではなく、上手く飛べなくなった結果であるようだ。このまま翼をもいでやる、とばかりにライルは大剣を再び振り上げて、横に薙ぐ。腕に響く固い手応えはあったが、『真白』の加護を受けた身体は、ベテラン狩竜士の膂力さえあっさりと乗り越えて、『時風』の翼を片方、完全に斬り飛ばした。
『時風』が悲鳴のような叫びをあげて、飛行の勢いを殺せぬまま落下してゆく。地上にぶつかる衝撃が訪れ、何本もの木をなぎ倒し、地面を引きずって、『時風』はようやく動きを止めた。
 動かない今が、とどめを刺す絶好の機会だ。ライルは剣を構え直し、『時風』の背中を走って頭を目指そうとした。が、ここで予想外の事態が起きた。『時風』が、火事場の馬鹿力とばかりに気力を振り絞って身を起こし、咆哮したのだ。
「どわおうっへえ!?」
 前触れ無くいきなり足場が斜めになってひっくり返り、ぽおんと投げ出されたライルの口から思わず情け無い悲鳴が飛び出す。が、こちらとて歴戦の狩竜士。不足の事態にも動揺を最小限に抑えるくらいの精神力は持っている。空中で体勢をととのえ、一旦剣を捨てて両腕で頭をかばい、転がるようにわざと落ちる。腐葉土の地面も柔らかくライルを受け止めてくれたので、痛みは全く無かった。
 投げ出した大剣が、どん、と音を立てて傍らに突き刺さる。ライルは身を起こして再度それを手にすると、『時風』に向き直った。
『時風』はすっかり体勢を崩し、木と木の間に挟まるように引っかかって、身動きが取れないのか、低い唸り声を発している。抵抗出来ない相手を討ち取るのは戦士の誇りに反するだろうが、何せこいつは伝説級の竜。手心を加えたら、次の瞬間にはこちらの首が飛んでいる。
 ライルは剣を構え直して走り出す。ひとつ、跳躍して『時風』の爬虫類系の顔に飛び乗れば、竜は苛立たしげに口を開いてこちらの身体を揺らしたが、足を踏ん張って耐えると、眉間まで駆け上がり、大剣を振り上げて、勢い良く突き立てた。
『真白』の力を乗せた腕力の振るう刃が鱗を突き破り、絶叫が林じゅうの空気を震わせる。『時風』は何かを願うかのように天を仰いだがそこまでで、力尽きぐったりとうなだれた。
「……見事だ」
『時風』が事切れたのを確信した凪音が近づいて来て、心底感心した、とばかりに呟く。
「私が力添えする隙など全く無かったな。さすがは伝説の狩竜士」
「おだてても何も出ねえからな」
 人々がライルを讃える時に出る台詞にお決まりの文句を返しながらも、ライルの鼻の穴は、嬉しそうにぴくぴく広がったり縮んだりを繰り返している。
「おっと、こいつを忘れちゃいけねえ」
 まだ小鼻を膨らませながらも、ひとりごちて、『時風』の眉間から剣を引き抜き、傷口に手を突っ込む。しばらく彷徨った手が固い感触を探り当てたので、握り締めて取り出せば、緑色に輝く石がきらきら輝きを零しながら、ライルの手の上できらめいた。
 リルの姿を捜し求める。腕組みした少女は、少し離れた場所からこちらを見つめている。
 ここから放り投げるにはいささか距離があるか。ライルはしばし逡巡した後に、『時風』の顔の前にいる凪音に目線を向けると、
「あいつに渡してやってくれるか?」
 と、緑の石をぽおんと放り投げた。
 途端。
「――何をしておる、馬鹿者!!」
 珍しく――本当に珍しく血相を変えたリルが、怒鳴り声をあげた。と同時、凪音が両手で竜の石を受け止める。

 そしてそれは、その直後に起こった。