4:禍土編(4)
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 青白い満月が空に浮かぶ下。灯篭にはゆらゆらと炎が揺れ、暗い庭をぼんやりと柔らかい赤に照らし出している。
 そんな庭の手頃な石に凪音が腰掛け、右隣を軽くつついてライルにも座るように促す。ただの子供だと思っていたのに、お姫様、しかも自分を運命の相手などと言い出した少女だと思うと、何だかどぎまぎして、ライルは袖に手を突っ込む形で腕を組み、わざとらしく堂々と腰を下ろした。
 しばらく落ちる、沈黙の後。
「すまなかった」
 凪音がふっと長い睫毛を伏せて、呟くように告げた。
「父の信用を得る為とはいえ、将来を誓い合った仲だなどと言ってしまって。そのような格好までさせられてしまって、ライル殿にはさぞかし迷惑であったろう」
「あー、いやー……」
 今までの『一流狩竜士かりゅうどライル』ならば、必要以上に人と距離を詰めない為に、きっぱり『そうだな』と答えていただろう。だが、美しく着飾って物憂げな表情をした凪音の横顔を見ると、それ以上彼女を落ち込ませるような言葉が出て来ない。もごもごと口ごもりながら、視線を彷徨わせた時。
朱音あやねとは」凪音が口を開いた。「私の姉だった女性だ」
 目の動きが止まる。天津地あまつちに来てからさんざん頭の回転が鈍かったが、今は凪音の言葉に違和感を覚えられる。
 何故、「だった」と過去形なのか。視線で問いかけると、凪音はふっと顔を上げ、真剣な眼差しでこちらを見つめて、先を続けた。
「朱音姉様は亡くなられた。『禍土あまつち』の花嫁に選ばれて」
「あ?」
 思わず変な声が洩れてしまった。人が竜の花嫁になるとは、一体全体どういう事か。しばし黙考して、しかし思い至る。
「人身御供になった、って事か」
 その言葉に、凪音が沈痛な面持ちで再び顔を伏せる。図星だ。
 竜に対抗するだけの戦力を持たない地域では、若い女性を生贄として竜に差し出し、しばらくの間人里を襲わせないように仕向ける場所も往々にしてある。金で動く狩竜士が多い中、竜退治の戦士を雇えるだけの資金を用意できない辺境村では、ごく当たり前のように行われる因習だ。まさか東の国でも行われていたとは。
「朱音姉様は、とても美しく、優しい方だった」
 顔をうつむけたまま、凪音が語る。膝の上で握り締めた拳が細かく震えている。
「剣を振るしか能が無い私と違い、歌を詠み、琴を奏で、茶をたしなんで。料理も上手く、明るく前向きで、神話の女神のような美貌を持っていて、いずれは天津地一の花嫁になるだろうと、誰もが、父も私も、信じていた」
 だが、事情が変わったのだ。
「『禍土』は、そんな姉様に目をつけた。それまで山奥で暮らし人前に姿を見せなかった『禍土』が、突然、各地で土砂崩れや干ばつを起こすようになり、竜のかんなぎを務める千草殿を介して、朱音姉様を花嫁に指定してきたのだ」
 千草殿とは上座近くにいた小柄な方だ、と言われて思い出す。朱音の名が出た時に、誰もが痛ましげな視線を向けていた青年を。
「姉様はそれでも明るく、『私が「禍土」様の花嫁になる事で天津地が救われるなら、いくらでもこの身を捧げましょう』と笑って、『禍土』の棲む智成ちなりの山へ一人赴き、そして、帰っては来なかった」
 ぽたり、と。
 凪音の震える拳に雫が落ちるのを、ライルは暗がりでもしっかりと見届けた。
「私は許せなかった」
 頬を伝い落ちるものもそのままに、凪音はかすれた声を絞り出す。
「姉様を奪った『禍土』を。許婚でありながら姉様を守らなかった千草殿を。言われるままに流された父や家臣達を。そして、姉様を救う力の無かった、自分自身を」
 歯を食いしばり、その間から呻くような声を洩らす凪音を見下ろして、ライルの胸もずきりと痛んだ。記憶の底に仕舞い込んで、重石で蓋をしていた赤い悪夢が蘇る。
 それをぶんぶん頭を振る事で駆逐すると、ライルはそっと左腕を伸ばし、凪音の柔らかい黒髪に触れて、その頭を軽く自分の肩に寄りかからせた。凪音が驚いて硬直する感覚が、肩越しに伝わる。
 花の香料を使ったのか、甘い香りが鼻腔をくすぐる。柔らかく温かい感触は、長らく味わっていなかった女性のものだ。懐かしい、と素直に思った。
『貴様、わらわと一緒の布団で寝たくせに、それはカウントに入らぬと言うか』
 リルが聞いていたらそんな台詞と共に牙をむきそうだな、と考えながら、
「お前のせいじゃねえぞ」
 ライルは力強く、言い切った。
「『禍土』は伝説竜だ。誰が立ち向かっても勝てなかった。下手に逆鱗に触れて天津地が滅びるより、自分の命で天津地全員の命を救ったお前の姉ちゃんを、誇りに思え」
 我ながら詭弁だと、凪音に見えないように唇を歪める。誇りになど思わなくて良いのだ。ただ、生きていてくれれば良かった。そう思って後悔した事が、何度あるだろう。
 だが、ライルの自嘲は幸い凪音には伝わらなかったようだ。頭を撫でる手に、ひんやりとした細い手が重ねられて、指が絡まって来る。
「ライル殿」凪音の声はまだ少し鼻声だったが、涙はもう止まったようだ。「ありがとう」
「い、いや、俺はただ思ったままを言っただけでな、深い意味はな」
 はたと我に返り、見る者が見たら物凄い誤解を招くツーショトになっている事に気付き、ライルは咄嗟に凪音と距離を置こうとする。が、凪音はかみしめるようにライルの肩に頬を押し付け、においをかぐように鼻を滑らせると、ふっと夜空を見上げた。
「ライル殿、月が綺麗だな」
「お、おお? うん、まあ、俺の正拳突きは一流だって、いつだったか格闘技を教えてるじいさんに褒められた事があるからな?」
 動揺のあまりすっ飛んでいった受け答えをすると、凪音がくすりと笑って、至近距離でこちらの顔を見上げて来た。その瞳はまだ潤んでいて、頬が心なしか赤い。
「いや、突きではなく、『月が綺麗ですね』と言うのは、天津地の近代文学で、愛の」
「ライル」
 不意に、凪音の言葉を遮る形で、鋭い声が割って入った。ライルと凪音は即座に一定の距離を取り、揃って声の方に視線を転じる。
 腕組みし、その目力だけで肉食獣も殺せそうなほど不機嫌極まりない表情をして立っていたのは、リルだった。いつの間にいたのか。どこからライル達のやりとりを聞いていたのか。
「ナギネの姉が『禍土』の花嫁になったあたりからか」
 ライルの心を読んだかのように、むすっとした顔のままリルは言う。わあ、結構最初の方からばっちり見聞きされてた、という羞恥の泉がライルの脳内に溢れ出る。
(この出歯亀! っていうか出歯竜!)
 呪詛を吐きながら隣を見やれば、凪音も恥ずかしさで胸一杯なのか、耳までゆでだこのようになって、口元を引きつらせながらうつむいていた。
「話がある」
 リルはつかつか歩み寄って来たかと思うと、ぐいとライルの腕を引いた。外見に似合わぬいつもの馬鹿力に、ライルはよろめきながら立ち上がり、引かれるままについてゆく。
「……神の竜と契約した狩竜奴かりゅうどの関係など、敵わぬではないか」
 去りゆく二人の背を見送りながら、凪音が切なげに目を細め、子供のように唇を尖らせた。
「ずるい」