5:闇樹編(1)
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 ざあざあと滝のように雨が降る。暗い空に時折稲妻が走り、ずどおおおん! と鼓膜を突き刺すほどの雷音を響かせる。
 そんな天気が、もう、三日。
 災害に対応する建物造りも、排水機構も、それなりに整っている天部あまのべには、今のところ目立った被害は無いが、首都を離れた村々では、床上浸水や土砂崩れが起きたり、洪水で収穫前の作物を根こそぎ畑から持って行かれた場所も出て来ているという。
 明らかな異変であった。
『異国の狩竜士かりゅうどが「禍土あまつち」様を弑した天罰だ』
 天津地あまつちの上層部は当然、そう言ってライルに全ての責任をなすりつけようとしたのだが、凪音と、天部に戻って来た朱音が全てを包み隠さず轟也に語った事で、ライルへ向けられた嫌疑の矛先はひとまず引っ込められた。
 だが、新たな難問は湧いて出る。
「狩竜士さえ敵わなかったその『闇樹あんじゅ』を、誰が倒すのだ」
『闇樹』が『真白まつくも』――リルを連れ去ってどこへ行ったのか、誰も知らない。よしんば見つけ出したとしても、一流狩竜士と謳われたライルが、張り手一撃で倒されるような力を持つ竜だ。誰に太刀打ちできようか。
 不安は恐怖へと肥大し、波のように伝播する。天部王宮内でも、誰もが顔を合わせれば、口をついて出る話題は伝説竜への畏怖と、芳しい対策を講じてくれない轟也への不満。それらは苛立ちに転化し、高官は廊下で袖が触れた女官を突き飛ばし、彼女が抱えていた桶から飛び出した洗濯物が別の家臣にひっかかって、彼が女官をまた蹴飛ばす。汚れた洗濯物を抱えた女官は、上司からひっぱたかれ、たまりにたまった鬱憤を更に幼い小姓にぶつける。そんな負の感情の連鎖が天部内にも渦巻いていた。
 だが、轟也は手をこまねいていた訳ではない。
『まだ、希望はある』
 綺麗に丸めた頭を撫でながら、天津地の主は自信を持って言い切った。
 凪音も父の言葉の意味を正しく理解し、機を待ち続けている。
 こそこそと囁き交わす家臣達の胡乱げな視線を浴びながらも、大股に廊下を歩き、滑り込むようにとある一室へ入って、布団で眠る大男の傍らに正座して、その顔を見つめる。
「ライル殿」
『闇樹』の前に倒れたあの日から眠り続ける、狩竜士の手を軽く握り、名前を呼ぶ。
「私は、いや、父上も信じている。きっとそなたがこの状況を打開してくれると」
 ライルの顔は無精髭が再び濃くなり始め、その目はいまだ、開かれる事が無い。

 辺り一面の暗闇の中、ライルは一人立ち尽くしていた。視線を下ろせば自分の手や足元はきちんと見えるのに、周囲を見渡しても、どこまでも真っ暗な空間が続いているばかりで、何も見えない。
 自分はとうとう死んだのだろうか。だが、迎えに来ても良いはずの養父も姿を見せない。死後の世界とは、案外味気無いものだ。ぼんやりとそう考えた時。
『どあほ』
 最早聴き慣れた高い声の罵倒が耳に入って、ライルははっと背後を振り向いた。
 黒いワンピースは何も無かったはずの闇に沈み込む事無くきちんと見えて、薄桃色の髪と琥珀色の瞳は、この暗黒世界に灯った光のようにさえ思える。
『わらわが貴様の傷を治してやったじゃろうが。何を死んだ気になっておる。貴様、本当に脳筋ゴリラだの』
 相変わらずの毒舌が、今はこんなにも安心できる。思わずへらっと笑いを洩らすと、相手の少女は『何を笑うておる。大丈夫か貴様?』と、眉間に縦皺を寄せた。
『まあよい。「闇樹」が眠りについている隙を突いて、貴様にこうして意識を飛ばしておる。手短に話すぞ』
 少女――リルは、ふうっとひとつ息をつくと、いつも通り腕組みして偉そうに胸を張り、神妙な顔をして語り出した。
『わらわが貴様の傷を治してやった時に、わらわの力の欠片を、ほんっとうに少しだけだが貴様に注いでおいた。その影響で貴様の身体に負担をかけ、深い眠りにつかせたが、それがきちんと繋がりさえすれば、貴様でも「闇樹」の行方を追う事ができるだろう』
 言われて、ライルは現実を思い出す。闇に落ちる前、『闇樹』にこてんこてんにされて、リルに傷を癒され、その後、猛烈な眠気に襲われて、事の次第を最後まで見届けられなかった事を。
『わらわは今、これ以上の事ができぬ状態に置かれておる。貴様に頼るしか無い』
『もう終わりじゃ』などと告げておいて、全く終わる気など無かったではないか。いつものライルなら、即行でそう突っ込みを入れていただろう。だが今、ライルの胸に溢れるのは、リルがまだ自分を頼りにしてくれている、という嬉しさと安心感である。
「任せておけよ」
 どん、と拳を己の胸に当て、『敵無しのライル』に相応しい、自信に満ちた笑みをにやりと浮かばせる。
「絶対行くからな。それまでくたばらずに待ってろよ」
 リルの琥珀色の瞳が真ん丸く見開かれ、それから、嬉しそうに細められる。
『その言葉、信じて待っておるぞ、我が狩竜奴かりゅうど
 微笑んだその姿が闇に溶けて消えてゆく。後には小さな、親指の先大の白い光が残った。
 絶望の中に灯った希望のごときそれに、ゆっくりと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、光はさらにまばゆく輝いて、

 世界が、開けた。