序 闇を駆ける

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 走れ。
 その思考が今の彼の身体を支配していた。
 暗い森の中、必死に腕を振り、前へ前へと足を踏み出す。そうしなければ、死ぬ。死が、闇夜の中から大きな口を開いて自分を呑み込もうと迫り来る。
 奴らは追って来る。自分をとらえ息の根を止めるまで、追跡の手を緩めないだろう。だから走るしかない。逃げるしかない。
 ゆうに数十分は走り続けていたが、背後から追尾する感覚が遠ざかってくれる事は無かった。
 息はとっくにあがり手足が重い。木々の合間を抜ける内に張り出した枝に顔や腕を引っかけて、血が流れている箇所もある。
 びょう、と何かが耳元をかすめる音がした。足を止める事はしないものの、思わず振り向く。木の幹に突き立つ矢の白い羽根が、わずかに差し込む月光を受けて不気味に青味を帯びているのが見え、そしてあっという間に遠ざかり闇に溶けた。
 獲物をしとめるまで追い続ける無慈悲の暗殺者達。その姿は夜の黒に埋もれて見えない。だが、油断無くこちらを見すえているだろう暗い視線を頭の内に思い描く事はできる。
 この森を抜けられれば街へ出る。大勢の中に紛れ込んでしまえば、奴らもそう簡単に手出しはできないだろう。
 ぜえぜえ激しい呼吸を繰り返して走り続け、やがて木々が途切れて人工の明かりがぽつぽつと見えて来た。
 安堵に口元をほころばせて走る速度を気持ち落とす。
 その時。
 悪意が形を持って急速に近づいた。
 身体を前に突き飛ばす衝撃の後、焼けるような痛みを左肩に感じて、彼は苦痛に顔を歪めて前のめりに倒れ込む。受け身を取れずに顔面からまともに地面にぶつかり、視界が一瞬真っ白に光った。
 ぐらぐら回る頭で必死に状況を把握しようと努める。肩から全身へと伝わる鈍痛、血が流れ出る感触は、矢が当たったのだと、見ずともわかる。
 あっという間に肩から先が麻痺して言う事を聞かなくなり、吐き気が込み上げる。何らかの毒が仕込まれていたに違いない。奴らならそれくらいの事も平気でしかねない。
 朦朧とし始める意識の中、逆にそればかりが鋭敏になった聴覚が、地面に散らばる木の枝を踏みしだく複数の足音を聞き取った。
 こちらの足を止めた事でとらえたと思ったのだろう。追跡者達はそれまで消していた殺気を隠さずに包囲網を狭めて来る。ちゃきり、剣呑な刃を構える音も聞こえた。
 死にたくない。
 転んだ拍子に口の中に入った土をじゃりじゃりと噛みしめて歯を食いしばる。動く右の拳を、皮膚に爪が食い込むほどに強く握りしめる。
 俺はまだ死にたくない。
 ――死ねない!
 瞳が生を渇望して見開かれ、強い思いは言葉にならぬ叫びとなって口から迸る。
 直後。
 森の中を、吹くはずのない風が吹き荒れた。
 樹齢数百年の木々さえ根元から揺るがす凶暴な風が駆け抜けた後には、動くものの無くなった静寂が残るばかり。ある者は幹に全身を強く打ちつけて、またある者は鋭利な刃でめった切りされたかのように身体から血を流して、ことごとくが絶命していた。
 そんな中、懸命に身を起こしふらりと立ち上がる、人影ひとつ。
 浅い息をつきながら周囲を見渡し追跡者の全滅を認識した彼は、左肩に手を回し、ぐっと奥歯を食いしばって矢を引き抜く。
 そして、自身の血で汚れたそれを投げ捨てると、振り返る事もせぬままよろよろと歩き始めた。
 闇の中にそれだけが希望のごとく灯る、街の明かりを目指して。

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